1年目の初め:ただの振動なんかより、

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 何もする気になれなかった。  朝になると7時に目が覚めて、学校へ行く準備をして、バスに乗る。空っぽの頭でよく分からない授業を受けて、それが終われば練習場について楽器を出す。ここまではいつも通りなのに、音を出そうとしても、出てくるのは管の中を空気が流れる音。私の唇は震えない。だからそれが楽器に伝わることはない。以前の吹き方を思い出そうとしても、それを100パーセント再現することが出来ない。何とか絞り出した音は硬さも柔らかさも何もない、まさに無意味な振動だった。  何もかもが灰色に見えた。 「あんず」練習が始まると山下先輩はいつになく真剣な声で私を読んだ。「こっちおいで」  何を言われるのだろうという言葉が儀式的に浮かんで、そんなの決まってるという言葉が追い越していく。  キャンパスの端っこ、建物と建物の間にできてしまったようなスペースまで連れてこられて、山下先輩は唐突に言った。 「コンクールの事だけど、」そこまで聞けば、馬鹿でも分かる。「今のあんたを出す訳にはいかない」 「はい」それ以上何が言えるっていうんだ。 「なんで突然アンブシュア変えたの?」  その質問には何て答えたらいいのか分からなかった。――理由は、分かってはいるんだ。  安堂が怖かった。どんな音でも出せるあいつに、私の音を聴かれたくなかった。そう思うと身体がどんどん硬くなっていって、震えて。最後にはみんな、私の身体から消え去ってしまった。 「……まあ、無理に変えようとしたって事は、変わりたかったんだろうけどさ。あんたほど吹ける奴がこれ以上何を求めるっていうの? ……確かにあんたの音、固いし、吹奏楽っぽくはないけど、それでもあんたほどのラッパ吹きなんてそうそういない」 「そうそういないからって、満足できるんですか」思わず言葉が出ていた。 「努力して、努力して、そうそういないラッパ吹きになって、でもそれ以上の才能持ってる奴には、どうやって追い付いたらいいんですか」 「それを私に訊くんだ」先輩は初めて、声を震わせた。「よりにもよって――」  あんたが、という口の動きを見てとることが出来た。声にしなかったのは山下先輩のプライドなのだろうか。先輩は大きく深呼吸をして、その感情を音もなく吐き出した。目に見えないはずの感情が呼気に乗って霧散していくが見えた気がした。 「あんたの後釜はオーディションで決める。私と部長と監督でね。……あんたも来る?」 「いいです」意地悪な質問だ。「みっともなくて、行ける訳ないじゃないですか」 「そう、そうだよね。ごめん」  何かもう少し言うかどうか悩んだ結果、先輩はそれ以上何も言わず帰ってしまった。それで良かった。今何かを言われても、私には何も答えることは出来そうになかったから。  トランペットからマウスピースを抜いて、音を鳴らす。頭の中では確かに音が出ているのに、実際には風が通り抜けていくだけ。今まで培った経験を全て捨てて、頭の中を整理して、すべての意識を唇に集中出来た時にやっと、私のマウスピースは音を立てた。まるで蚊が飛ぶような音を。  人生を否定するような音だ。今まで培ってきたすべてを捨てて、新しくやり直さないといけないだなんて。私はただ、安堂みたいになりたかっただけなのに。 「あんずゥ」  その安堂の声が、背後からした。よりにもよって、なんで、今 「なに」声ばかり尖ってしまう。トランペットが鳴らないからって、声を鋭くして私はどうするつもりなんだろう。 「ちょっと話そ?」  いつもと変わらない声で、安堂は私の袖を引っ張った。連れて行かれたのはいつものテラスだ。 「怖い顔してるね、スマイルスマイル」と安堂は私の眉間に人差し指を当てて、ぐいと持ち上げた。 「音楽って、音を楽しむモノなんだよ。だから自然に、出た音を聴いて『ああ、今日も良い音でてるなあ』って自分を褒めてあげなくちゃ。もう大学生になったら自分以外誰も褒めてくれないもんね」  いつもの食堂のテラスで、安堂はいつも通りの笑顔を作った。照明を反射する私のトランペットみたいに、白い歯を鬱陶しいくらいに輝かせていた。 「私ね、」と私は呟く。精一杯の悪意を込めて。「音を楽しむから音楽っていうやつ、凄く嫌いなの」 「そう?」と安堂は首を傾げた。私の精一杯を、そう? の一言で片づけて、それでいてまだ笑っていやがる。チューバを膝にのせて、それに身体を預けて、スライムみたいにだらけていやがる。  鬱陶しい、忌々しい、悔しい、うざい。色々な感情がお腹の中をぐるぐる回っている。もしも私がトランペットを持っていなかったら、私は安堂を殴っていたかもしれない。あるいは安堂の奴隷のように、彼女の身体を支えるチューバを蹴り飛ばしていたかもしれない。  そうすればこいつにも、今の私の気持ちが少しは分かるかもしれない。「楽器」という、私達吹奏楽部員にとって神聖不可侵なものを、蹴り飛ばすとまで考えてしまう私の気持ちが。 「まあ、考え方は色々あるもんね」  安堂はそう言うと、小さく息を吸ってマウスピースに口を付けた。  ぼん、ぼん、とチューバの低い音が青空に響く。その瞬間に私は、さっきまでの暴力的な気持ちが、間違いであったという事を知らされる。  安堂のチューバの音は、すごい。小さくて華奢な身体から、どうしてこんなに太くて芯のある優しい音が出るというのだろう。私の皮膚を突き抜けて、内臓と心を震わせる音をどうやって出しているんだろう。間違いなく彼女はこの大学で最高のチューバ吹き――ううん、最高の音楽家だった。 「あんずゥも一緒に吹こ。ロングトーン。6拍伸ばして2拍休み。B音階で下がっていくの。初めて話した時みたいに」  安堂は私の目を見た。鬱陶しいやつ、と私は歯ぎしりをした。鬱陶しくて、怒らせるのが上手で、かつての私よりも楽器が上手で、今の私とは比べ物にならないほどの実力者。  そんな彼女は電子メトロノームを弄って、ぴぴぴ、という気楽な音を鳴らした。 「テンポは60ね」と言って楽器を構える。そうなってしまえば、表情はまるで見ることが出来ない。分かるのはぴっ。ぴっ、というメトロノームの音だけ。 「いくよー。……5,6,」そこまで言って、彼女は大きく息を吸った。メトロノームがぴっ、ぴっ、と音を立てている。その時に私は、安堂につられて大きく息を吸っていることに気付いた。  それからぶうん、とチューバが音を立てる。トランペットの音は聞こえない。音が鳴らない。唇が震えない。そんな状態の私と一緒にロングトーンをして何が楽しいっていうんだ。それとも―― 「集中して」6拍伸ばし終えた安堂の声が私の思考を妨げる。彼女は大きく息を吸い始めると、私もつられて息を吸ってしまう。  Aの音が鳴る。太くてきれいな安堂の音色。それに乗っかるようにして「ぷす」というトランペットの音が聞こえる。ぷす、ぷす、と情けなく断続的になっているトランペット。 「焦らない」安堂にしては真摯な言い方だった。そして大きな吸気。  Gの音。その時私は、自分の身体に力が入っていたことに気付いた。グッと肩を上げて、下ろす。凝り固まっていた身体が少し、柔らかくなった。 「私の音をもっと聞いて?」  Fの音。柔らかくて、暖かい音。どんな音でも許容して上に載せてくれる、優しい音色。  ぷうう、と初めてトランペットの音が伸びた。弱々しくて情けない。けれど、 「そう。今度は出だしから」  Esの音。メトロノームとトランペットの音が重なる。稚拙で細い音。今にも倒れてしまいそうで、がちがちに力が入ってしまっている音。けれど確かに、それはトランペットの音だった。チューバの上でその音は、間違いなく自立していた。  Dの音。さっきまでは違って、まるで上手く鳴らない。さっきみたいにぷすぷすと故障した機械みたいに音を上げるだけ。なんでだよ、と私は思った。さっきは上手く鳴ったじゃんか。 「焦らないで、」その一言で、私の力が抜けていく。「もっと私を見て」  最後のBも出だしは上手く鳴らない。けれど安堂を見ていると、彼女の音を聴いていると、不思議と力が抜ける。私の悪い所が抜けていくみたいで、そうなると私のトランペットは音を少しだけ取り戻した。 「今度は、」ロングトーンが終わって矢継ぎ早に安堂は言う。「2拍で降りていって休みなし。やってみよっか」  返事を待たず、5,6,とカウントして安堂は息を吸った。私も息を吸った。チューバが響く。まるで腕を広げて、私が飛び込んでくるのを待っているみたい。  そう考えるとどことなく気恥ずかしさもあったけれど、私のトランペットは音を立てた。安堂の音に抱きしめられながら、私は形を取り戻そうとしている。  B、A。初めて音が出た時のことを、私は思い出した。今よりも、もっと下手くそで、どうしようもない音。  G。F。それでも父さんは褒めてくれたし、私も嬉しかった。褒められたことよりも、音が鳴ったことが誇らしくて嬉しかった。  Es、D。安堂の音は、私にその気持ちを思い出させてくれる。酷い音色で、タンギングもめちゃくちゃなのに「それでいいんだよ」と私を褒めてくれいるみたい。  C。B。心が軽くなっていくような感じがする。私を締めつけていたものが、ぼろぼろと崩れ落ちるみたいに。  この小さなスケールが終わって、安堂は楽器を下ろしてふう、と溜め息を吐いた。  唇を手で拭いながら、にこっと笑う彼女はあくまで普段と変わらず明るかった。彼女の言う通り、私の吹けた部分なんてほんの少しだけだった。それでも安堂は貶すことも馬鹿にすることもなく、スケールに付き合ってくれる。 「吹いててどうだった?」 「色々考えさせられる、酷い音だった」  でも、と続けようとした時に安堂は言った。 「そうだよね、酷かった」にっこりと笑っていた表情は、どこか悲しそうでもあった。  そのまま彼女は続けた。「でもあんずゥはそれが分かるもんね」  安堂はそのまま楽器を地面に付けて、身体を私に寄せた。 「私のお父さんさ、音楽聞くのが凄く好きで、私も小さいころからいろいろ聞かされたんだよね。吹奏楽から入って、ジャズ、クラシック、ロック、J-pop。……私が中学生になって吹奏楽部に入るって言ったらすごく喜んで、本番には絶対追っかけで来てくれたの」  その時に買ってもらたマウスピースがこれ、と楽器から外して私に見せてくれた。綺麗な銀色で、そんなに前に買ってもらったものとは思えないくらい綺麗に手入れされていた。 「でも私が高校の時に脳出血? になって――ああ、いや。今でも生きてるし、働いてるよ。リハビリ凄く頑張って今じゃ病前と変わらないくらい……でもね、音楽が聴けなくなっちゃったの」 「……どういうこと?」 「今まで聞いてたCDも聴かなくなって、ラジオを付けてても勝手に消されちゃって、私のチューバも……うるさい、って。  ……お医者さんに訊いてみたの。こんな事になってて、どうしたら良いかって。そしたらお医者さんね、それは多分失音楽だって言うの。すごく珍しいことで、しかも分かり辛いから、リハビリのやり方も分からないんだって」  失音楽。初めて聞いたその言葉は、私に絶望に似た感情を覚えさせた。音楽を、失う。私にとってそれは想像もつかない悲しさがあるように思えた。  安堂のその声は、多分私の、想像もつかない悲しさと同じ感情が込められているんだろう。ひょっとしたら彼女は、入院するお父さんにもう1度チューバを聴いてもらうために、1人の吹奏楽部を続けていたのかもしれない。けれど、そうにもかかわらず、安堂のお父さんは「うるさい」と安堂に言ってしまったのかもしれない。 「音楽って、客観的に見れば、ただの空気の振動で、――うるさい物なの」  うるさい、という安堂の声は小さかった。 「でもね力はある」  安堂は私の手を握った。暖かく、しっとりと汗で湿っている。 「力があるのは私達人間。ただの振動を聞いて、それを音楽だって胸を張って言える」  手がぎゅっと、包み込むような彼女のチューバの音みたいに、強く握られた。。 「あんずゥには、まだそれがあるでしょ?」  その優しい声は鋭く、私の心に突き刺さる。 「あるから、酷い音だって言えるんでしょ、いろんな事考えて、吹けるんでしょ?」  返す言葉は何も出てこなかった。けれど体の震えは止まっていた。とくん、とくんと血が流れているように感じる。暑くなって、身体のこわばりが解けていく。目に、鼻に、喉に、何かがこみ上がってくる。  すっ、と安堂の手が離れた。彼女はその手で楽器を持って、立ち上がった。 「待ってるから」  真っ直ぐな目と、強い言葉だった。川島先輩に向けたような、真摯な声。 「どれだけかかっても私のところまできて」  それだけ言い残して、彼女は去って行く。そんな彼女の背中を見る私の中に何かが生まれていた。  私は腕で目をこすった。泣いてなんかいない。泣いてる暇なんかないんだ。安堂の背中に向けて楽器を構えて、大きく息を吸う。唇の形を整える。  息が流れ出る。唇を振動させようとしてもまだ上手くいかず、細くて情けない音が途切れ途切れに鳴っている。けれど、それでも私の音は芯となるものを1つ得て、1人でも立っていられる。  ――上等だ。  もう一度息を吸って、私は思った。  どれだけかかっても追い付いてやる。私に力が残されているというのなら、何を失っても、どんな事をやってでも。  遠く離れてしまった安堂を見て、私は小さな、けれども確かな1歩を踏み出した。 ――これから始まるのは、歩くような速さで彼女を追いかける、私の4年間。
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