2年目の前:私を見てくれれば良いの。

1/5
47人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ

2年目の前:私を見てくれれば良いの。

 和を以て貴しとなす。  というのは、この国の強みであると思う。和を貴しとして、それを求めていくことは、調和すなわちハーモニーを生んでいくことになるのだから。ハーモニー無くして音楽は音楽になり得ない。だから、和を求めていくことは音楽を求めるうえでとても大事なことだと私は考えている。  それでも私には嫌いな奴がいる。「和を以て貴しとなす」の考えの悪い点はこの個人の好き嫌いまで口を出してくることだと思う。「同じ目標を持つ仲間なんだから」という言い分はもっともだ。それでも、いくら口を出されても私には好きになれない奴がいる。  なぜならばそいつは誰より不真面目で不謹慎で、人を怒らせるのが上手で、頭の中では練習をサボる言い訳ばかり考えてるかと思えば口を開けば不遜な態度しかとらないような奴だから――だから私は安堂が嫌いだ。嫌いというのが駄目なら、大嫌いだ。  それでも、あいつのチューバだけは好きだ。あの柔らかくて、芯の太い音。それでいて聞く人を圧倒する大きな音。丈夫な糸のように繊細な小さな音。色んな表現を持ちながら、そこに一貫している淀みのない響き。  その響きに嫉妬したのか何なのか、私にはよく分からないけど、私は突然楽器が吹けなくなってしまい、コンクールメンバーから落ちてしまう事になった。それでも我らが虎山大学吹奏楽部は堂々の全国大会金賞。最後の定期演奏会も終えて、4年生たちは引退となった。 *  話はちょっと遡る。楽器が吹けなくなってしばらくしてからも、私は部の為に自らの力を奉仕しなくてはならないと張り切っていた。  吹けない楽器を吹けるようになるために研鑽を重ね、やがて来るべきコンクールにおいて自身の力で結果を残す、あるいは顔の知れた先輩方や見た事もない後輩たちに脅威を感じさせ、パートのレベルの底上げをめざす。そんなことを考えながら楽器を吹いている私に、当時パートリーダーの山下先輩がねっとりとした口調で言ったのだ。 「あ、言い忘れてたけどぉ、あんずゥ、明日からガードねぇ」  ガードとは、正式にはカラーガードと言って、特にマーチングバンドで旗やライフルみたいな小道具を用いて華やかさを演出するパートのこと。  そして我らが虎山大学吹奏楽部におけるガードとは、マーチングに限らず座奏においても賑やかしを行っている。主に周辺自治体のお祭りや老人ホームへの慰問演奏などで活躍し好評を得ている、とのことだ。  ちなみに私が所属しているのは吹奏楽部。吹く、奏でる、器楽で吹奏楽。ガードのどこにこれらの要素があるのだろう。ない。ぶっちゃけよそのクラブに頼めばいいのにと思わないでもない。  などと考えていると山下先輩の後ろから長身の男が現れた。名前は知らない。肌が黒くて、東南アジア系の顔立ちをしている。コンクールメンバーではない事は確かだが、その馴れ馴れしい視線から先輩だと言うことは分かった。 「どうも、木下幸雄(きのした ゆきお)です。来年からガードチーフをやることになってます。相浦さん、これからよろしく」  見た目に似合わず流暢な日本語、そしてにっこりと笑う表情の裏に何か得体のしれないものがある。色々と考えていることがありそうな人だなと初対面から思っていた。 * 「トランペットパートの相浦あんずです」  そして現在。肌寒さがまだ残るけど、たくさんの運動部が活動する3月のグラウンド、その端っこで私はシャツとジャージを着こみ、程よく焼けている集団に囲まれている。私を合わせて12人いるらしいけど、変なテンションの高さから高男女混合フットサル部と言われても誰も疑わないだろう。 「ダンスの経験は無いので、皆さんの足を引っ張るかもしれませんが、出来るだけ早くそうならないようにするつもりです。よろしくお願いします」  頭を下げると例によって「うぇーい」という謎の発声が行われた。 「今まで名門コースだったあんずゥには中々抵抗のある事かもしれないけど」  木下先輩は爽やかに言った。  先輩のその言葉には挑発するような意図が感じられた。聞けばこの木下幸雄という人もコンクールメンバーを有望視されながら一つ下の後輩にその座を奪われた一人らしい。もともとコンクールメンバーだった私に対して嫉妬のような感情を持っていても全くおかしくはない。  勘違いされがちだけれど、私はコンクール至上主義者じゃない。コンクールだけが音楽じゃない。ポップスで聴衆を楽しませることもまた、音楽の醍醐味だ。というか、コンクール以外の練習が軽んじられる昨今の風潮は、私はどうかと考えている。そしてそこに付加されるダンスも音楽の一部だというのなら、分かった。本気でやろう。 「よろしくお願いします」  頭は下げない。目を見て啖呵を切った。 「いよっし、それじゃあ早速練習に入ろうか」  望むところだ。どんなことがあっても、絶対に音を上げてなるものか。 *   「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!」  そう叫ぶ私の背中を押す同学年の女は笑っていた。伸びた膝の裏とふくらはぎの裏が今にも千切れてしまいそうで涙もこぼれてしまいそうなのに、私の腰は直角から前に倒れない。 「声は出さずに息吐いて―!」  木下先輩のアドバイスに従って口から息を思い切り出す。そうするとちょっとだけ身体が前に倒れたような気がした。くすくすと笑うほかの連中は、みんな胸と太腿がくっついてエビみたいだ。 「いいかいあんずゥ。柔軟ってのはロングトーン、最も大事な基礎練習だ。これを疎かにして綺麗な演技は出来ないし、何より怪我のリスクが高まる。まずはこのガチガチの身体をほぐすやり方を教えるから、お風呂上りにしっかりやりなさい」 「はい!」 「返事は良し! じゃあ次」  それから色々なストレッチを私はやらされた。股関節や太腿の表裏や腰に至るまで。みっちりストレッチを繰り返し、1時間後に休憩が入れられた。休憩をこんなに待ち望んだ練習は、今までで初めてだ。 「恥ずかしいっていう言葉は無し。踊る阿呆と見る阿呆じゃ踊ってる方が楽しい。見てる人にそう思わせるってのが、今年のガードのスローガン。なもんで、休憩が終わったらまたビシビシいくからね」 「は、はい!」  返事の半分は勢いで、もう半分は習慣だ。要するに何も考えずに声だけ出ているということ。基礎練習と言われれば確かに、身体は軽くなったような気がする。けれどこんなのを毎日繰り返して大丈夫なんだろうか。他の連中はぴんぴんしてダンスらしき練習をしたり談笑したりしているけど、あんな風になるのが先か、病院に行くのが先か、ちょっと予想が出来ない。 「おやぁ」  そんな風に不安になってくると、そいつは決まってわざとらしく、私を腹立たせる声を聞かせてくるのだ。 「おやおやよくよく見てみれば、普段はクールなのに、人に身体を触られて凄い声をあげる女の子が休んでいるね」  背後からの声に振り向けば、そこにいるのは小学生と見間違うほどの低身長女。どことなくオッサンの雰囲気を醸し出す19歳は私の仇敵、安堂ちひろ。 「……何しに来た」  精一杯睨みつけても、安堂は例によって全く意に介さず私の方に駆け寄ってくる。 「えへへ、先輩にパシられてジュースを買いにいくところなのだ」 「じゃあ早く行けよ、自販機はむこうだぞ」 「もー冷たいなあ。あんずゥの応援にも来たんだよ?」 「そういうのはいらないからとっとと帰れ」 「もー」  と頬を膨らませたところで、「ねー相浦さん」とガードの誰かの声が聞こえた(名字で呼ばれたのは久しぶりだ)。 「一緒にジュースじゃんけんするからさ、こっち来てよ」  声の主は私の背中を押していた背の高い1年(名前は知らない)だった。その声は私を呼ぶ他に何か別の意図が含まれている気がしないでもない。 「ああ、うん」と返事をしても安堂が諦めてくれるかどうか、と気にしかけたところで。 「じゃ、私はこれで」と、さっきまでのしつこさが嘘のように去って行った。 「はーやーく」と背の高い彼女が呼んでいる。「はいはい」と駆け寄って、改めて見ると、背が高いだけでなく足も長い。スタイルがいいし顔も綺麗だ。吹奏楽部でなければモデルとして働いていたことだろう。……しかしこの人、名前さえ憶えていないのに、私の記憶のどこかに引っかかっている。 「じゃあ行くよ。じゃんけん一発勝負だからね。じゃーんけーん――」  条件反射で振り上げたその時、ガードの全員が同じことをしていることに気付いた。12人全員で、負けたら全員のジュースおごるの? それっていくらに―― * 「さて皆もご存知の通り、今度の本番はガードとして今年度最後の本番で、新体制最初の本番でもある」  木下先輩はコーラを美味しそうに一口飲んで(私のお金で買ったのだ、さぞ美味しいだろう)そう言った。その名を草礼地区梅祭りという本番で、虎山大学吹奏楽部は毎年のようにゲストとして招かれているらしい。 「そして最後にふさわしく、老若男女沢山の人が訪れる」 「何人くらい来るんですか?」 「んー……少なくとも100人は来る。良い天気なら200人は来るんじゃないかな」  となると100人の前で踊る訳だ。そう思うと、さすがに緊張する。演奏するのは1000人の前でも平気だけど、踊るとなると緊張しそうになるのは、やはり慣れているかどうかの問題だろうか。 「翌日にはコンクールメンバーの依頼演奏も控えてる。ウィンドバンド連盟の定期演奏会だったっけ。こっちも負けてられない」  と木下先輩は私達を焚きつけるように言った。その通りだと思った。定期演奏会はコンクールメンバーを中心に構成されていて、安堂は1年で唯一選出されている。確かに、負けていられない。 「ほんと、休憩ばっかりしてるチューバの誰かさんには、負けてられない」  私の心を見透かしたかのように、例の美人の子がとても嫌味ったらしく大きな声で言った。そうだそうだ、と心の中で頷く。 「小林」木下先輩がその女子を目で指して言った。小林さん、というのか。  木下先輩は小林さんを怒った訳でもないらしかった。彼女の後ろを安堂が、なぜかジュースを4つ抱えて歩いていた。先輩は気を使ってるのかもしれないけど、そこまで気を使わなきゃいけない相手じゃない。 「安堂!」そう思った時、私は思わず叫んでいた。 「なあに?」安堂は嬉しそうだったけど、私は怒ってた。 「お前、休憩ばっかりするな!」 「休憩も練習だって先輩言ってたもーん」 「そうでなくてもジュースばっかり飲んでたら太るぞ!」 「私細いもん。ちょっとくらい太っても問題ありませえん」 「血糖値とか気にしろ!」 「まだ若いから大丈夫だもーん。じゃねー」  そう言って私を馬鹿にするようにユラユラと身体を揺らしながら立ち去っていった。なんだってチューバは休憩ばっかりするんだろう。それともこれは、安堂の小さな身体を糖分で少しでも大きくしようというチューバパートの心づかいなのだろうか。 「相浦さんって、安堂と仲良いの?」 「まさか」と一蹴。「あいつが一方的に絡んでくるだけだよ。私は嫌い」 「そう公言する割にはよく一緒にいるよね。もしかしてツンデレ?」  木下先輩は私を茶化すことに抵抗がないらしい。ツンデレという言葉は知らないけど、それは私と安堂の関係を表すには不適切そうだという事は分かる。 「違います」とまた一蹴。  こわいこわいと木下先輩が茶化した横で、小林さんが小さな声で私に言った。 「才能にふんぞり返ってさ、安堂って嫌な奴だよね。才能あるんだからもっと練習しろって感じ」  それに返答する前に、木下先輩が「よぉーっし!」と不自然に大きな声を出し、立ち上がった。 「さて、俺達は練習しようか。鈴谷、1曲目から振り付け確認しといて。1、2年はカウントで、3年はメロディ歌ってね。テンポはゆっくり、曖昧なところはすぐ確認する事」  スズヤと呼ばれた女の先輩は大きな返事をして、他のメンバーは軍隊みたいにてきぱきと所定の位置に並んでいく。  私はどうすれば、と文句を言おうとしたところで木下先輩が私に指をさした。 「あんずゥは俺とデート。1週間で全部の振りを覚えてもらうよ」  ほう、そうきたか。木下先輩のどこかしら挑発的な目線を睨み返しつつ、5日で覚えてやると心の中で啖呵を切る。 「演奏される曲は全部で8曲だけど、ガードが出る曲はそのうちの5曲」  という事は1日1曲のペースという事。まあ、身体を動かすだけだし大丈夫だろう。 「でもその前にあんずゥは、」と先輩は私の両頬に親指を当てた。 「ひゃっ」と変な声が出たと同時に、その親指が持ち上がる。 「笑顔を作れないとダメだ。ガードで踊ってる時はずっと笑顔で。そうじゃなかったら何も考えずにボーっとしてるって見なすから、そのつもりで」  パッと手を放されると、頬の筋肉が重力に負けてぷるんと落ちた。最初に感じた笑顔の裏の何かはこの雰囲気だろうか。最初の朗らかな雰囲気はなくなっている。まるで―― 「返事」 「はい!」 「笑顔」 「はい!」  自分でも硬い笑顔だというのは、分かった。 *  11時からの1時間と、昼休憩をはさんで13時から16時まで木下先輩は付きっ切りで私に振り付けを教えてくれた。……出来はというと、 「まあ時間はあるし、ゆっくりやっていこう」  この先輩のコメントが私の状態を的確に表していたと思う。  はっきり言って、舐めていた。要は先輩の真似をしてそれを身体に叩きこむだけだろうと思っていたけど、真似をするという事の難しさは大変なものだ。手の形、足の動き方、回るタイミング、顔の向き、そして笑顔。私が動くたびに木下先輩は素早く的確に指摘した。1日で1つの振り付けを覚えるというのは、かなり大変なものだ。  しかし上等。それでこそやりがいがあるというもの。身体の動きは大体覚えたから、あとは「大体」を「完璧」にすればいい。そうするためには何をするべきか。  それは勿論、練習……なんだけど、私の所属するここは吹奏楽部。吹いて奏でる部なのだから、本業はあくまでトランペットという事になる。ダンスの振り付けは家でも練習できるけど、楽器はここでしか吹けない。という訳でトランペットを吹く時間も作らないといけない。  最後の挨拶が終わったら楽器を抱えて足早に食堂のテラスへと移動する。ある程度音は出るようになってきているけど、まだ練習場で吹く事には抵抗がある。「あの子、あんなに上手だったのに」というような空気を感じてしまって腹が立つのだ。「後で見とけよ」と啖呵を切ってやりたいところだけど、力が入ってしまって音が悪くなるから、啖呵は切らない方が良い。という訳で誰にもそんな目で見られないテラスは絶好の場所なのだ。  夕方を過ぎて、陽はだいぶ落ちてきていたけど耐えられないほどに寒くはなかった。それは良いのだけど、悪い事は2つあった。1つはテラスには先客がいた事。もう1つはその先客がよりによって安堂だったことだ。  安堂は練習時間中にやればいいのに、今頃ロングトーンをしている。その姿勢が気に喰わなくて、頭の中では怒鳴りつけていたけれど、実際にはそうは出来なかった。安堂はずっと、とても小さく細い音でGの音を伸ばし続けている。糸のような音と表現するのならば、その糸は絹糸だ。何をどう吹いても、安堂の音は美しい。  集中しているのか、目を閉じているのか。私に気付いていないみたいだったから、その前を静かに移動する。気付かれるとまた絡まれて面倒臭い。  ――Gの音はまだ伸び続けている。まっすぐな細い糸が地面に向かってすーっと伸びていくさまを連想させる。何かの光を反射して、きらっと輝く細い糸。それが真っ暗な空間に一本だけ、深い所へと伸び続けていく。どこまでも、どこまでも―― 「――っだあー! しんどぉ!」  安堂の突然の絶叫によってその音は途切れた。それからいつの間にか足を止めていた私に気付いて「おや?」とわざとらしく言った。 「どしたのあんずゥ? ひょっとして私の綺麗な音に聞きほれちゃった?」 「……うん」  肯定するのは悔しかったけど、それが本当なら隠すことは出来ない。  安堂は「え」とぽかんとした表情を見せたかと思うと、ゆっくりと頬を持ち上げて、笑い出した。 「えっへへへへー。そっかー、私の音に聞き惚れてたかー。そうかそうかー。……そんな聞き惚れてしまったあんずゥにお願いがあるんだけどさぁ」  こういう笑顔が出来る様になれば良いんだろうなと思う私の事なんか気にせずに、安堂は話を続ける。 「こんどの本番あるじゃん。ほら、なんとか連盟の定期演奏会。あれに私出るんだけど、集合時間早くてさ。だから、あんずゥんちに泊めてくれない?」 「いやだ」 「そんな、酷い」と安堂はさっきまでとはうって変わって今にも泣きをしそうな声を出した。 「私の家からじゃ始発でも間に合わないの。お願いします! なんでもしますから!」  ……何をするつもりなのか知らないけど、ほかにもっと頼れる人がいるだろうに。何で私ばっかり頼ってくるんだろう。 「何もしないのなら、良いよ。あと泊まったからには遅刻するなよ」 「ほんと? いやぁ、ありがとう。恩に着るよ。いや本当に」  また表情をガラリと変える。……嘘だとは分かっていたけど、ここまで爽やかにやられると腹が立つ。 「それじゃ、練習頑張れよ。サボり魔に追い付いたって嬉しくないからな」 「えっへへへへー」安堂はまた不敵に笑う。「覚えててくれてるんだね、その言葉」 「当たり前だろう」というと、安堂はまた気持ち悪く笑った。構ってられない。私は何も言わずに練習場所を探すことにした。 *  結局私が辿り着いたのは、キャンパスの端、1号棟の入り口前だ。静かな場所を探しているうちに練習場から大分離れてしまったけど、ここなら何の音もせず静かで、個人練習にはピッタリだ。 「さて」という声を出してから、まずはブレストレーニング。メトロノームのテンポは60、4拍かけて息を吸って12拍かけてその全部を吐き出していく。何度か繰り返したら、次は3拍吸って9拍で出し、次は2拍と6拍、最後は1拍と3拍。ここまでは、いつも通り。この5年はずっと変わらないルーティン。  問題はここから。マウスピースを取り出してのバズィングだ。さっきまでしたように息を吸って、唇を振動させるようにして、吐く。この時にイメージと現実とのギャップが生まれる。音が思うようにならず、「ぷぷっ、ぷうー」と途切れ途切れに情けない音が鳴る。「スー」という空気の漏れるような音も聞こえる。そうじゃないよと唇に語り掛けて、もう一度。均一で、まっすぐな音が鳴るまで、続けていく。  吹けなくなってからここまで来るのに半年以上かかったけど、以前の感覚を掴みなおすという事はまだできていない。でも着実に前には進んでいる。それは確かなことで、それを信じて練習をしていくしかない。  バズィングが終われば、次は楽器でロングトーン。息を吸って、吐く。こっちの音は大分マシになったけど、まだ細い。安堂みたいな糸みたいな音じゃなくて、私のはミミズだ。グニャグニャしていて予想できない方向にうねる。聴いていて心地よい音ではない。  ぐっと腹筋に力を入れて、口の筋肉に意識を向けて、うねりを抑える。グニャグニャのミミズをまっすぐにする感覚を身体に叩きこんでいく。ダンスと同じだ。1個ずつ気を付けるところを見つけて、そこを直していく。そして新しい課題を見つけて、今度はそこを直す。沢山ある直すべきところが全てなくなったら、いよいよ安堂の背中が見えてくる……はず。私が感じているほど、あいつの背中は遠くないはずなのだ。私が進歩を止めなければ、絶対に追い付けるのだ。  息を吸って、楽器を鳴らす。うねりだすBの音、しっかり息を入れて、揺れないように、でも乱暴にならないように、最後の一瞬までまっすぐな音を出す。  また息を吸って今度はAの音。最初からまっすぐに。……音程が少し高い。唇を少し緩めてゼロピッチを目指す。大丈夫、私の音程感はまだ生きている。けれど唇を緩めると、途端に音はぐにゃぐにゃとうねりだす。  Aの音が終わる。今の音にはどうしても納得がいかない。息を吸って、もう一度Aの音を―― 「練習熱心だね」  背後から声を掛けられた。振り向いて確認すると、ガードの綺麗な女の子――小林さんだっけ――が呆れるような表情で立っていた。……安堂といい、私の練習を邪魔するのが1年生の間ではやっているのだろうか。 「ちょっと、いい?」  いやだという言葉は喉元で理性に遮られた。この人の誘いを断ると面倒になるのではと、私の中の本能のような何かが告げている。和を以て貴しとなす。変ないざこざは避けるべし。 「……いいよ」 「よかった」と小林さんは笑顔になった。私のとはちがう、自然な表情だった。 「次の本番の後、1年生だけで集まって本番の打ち上げやるんだけど、相浦さんもどう? 親睦を深め合うには会食が一番だよ」  わざわざ時間を作ってまで言いたい事はそれか、と悪態が出てきそうになる。 「親睦ねえ……」  言われて思い出すのは全国大会の後の全体打ち上げだ。畳張りの大きな部屋で頼まれてもいないのに酒を飲みだす男子ども。公然と行われるアルコールハラスメント。空を舞う枝豆と唐揚げ。どこからか出てくる水鉄砲。「私あんたに何もしてあげられなかった!」と酔って抱き付いてくる山下先輩。「ラッパ2人が抱き合ってる! ちょっとエロいぞ!」とか言って写真を撮りに来る男の先輩方。あと安堂。「やめろ!」と叫んだあの日から何日か、声が巧く出なくなったのも覚えている。少なくとも私にとってあの2時間は地獄以外の何物でもなかった。 「大丈夫、同級生だけだし、前みたいな酷い事にならないよ」  私の心情を察した小林さんはフォローを忘れない。 「だからさ、いいでしょ?」  少し猫なで声になっている小林さんから、何か悪意を感じなくもない。けれどそれを理由に断るのは忍びない。  そうなると出てくる返事は「いいけど」という物になる。それは往々にして良くない時に出される言葉だ。小林さんもそのことを知っているらしく、少しだけ眉をひそめた。 「その間に練習したいなあって思って」  本当に練習熱心なんだねと小林さんは驚いていた。 「でも大丈夫、結構遅くにやるつもりだから。20時スタートの22時終わりだから練習時間には影響ないよ。次の日はオフだから夜更かししても大丈夫。ねえ、一緒に来ない?」  そんな夜更かしっていう時間でもないだろう。それに何か大事なことを忘れてはいないかね、小林さん。 「親睦を深めるのなら全員でやらないと。座奏のメンバーは次の日が早いらしいから、あんまり遅くなるのもどうかと思うけど」 「別に、安堂のことはどうでも良いじゃない」  と小林さんはあまりにも軽く言うから、事態の飲み込みが少し遅れた。
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!