第三章 恋は苦しい

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第三章 恋は苦しい

 日曜日はずっと落ち着かなかった。  夢に春奏さんが出てきたことから一日が始まる。  何度も昨日のLEENのやり取りを見返すなど、ちょっと気持ち悪いこともした。LEENを送ってみようかとも考えてみたが、勇気が出ず中止。その思考を繰り返すこと五回。  もう休日どころじゃない。作戦立てや妄想じみたことをすると、気の休まることなどなく――  あっという間に月曜日を迎えたときには――僕は憂鬱になっていた。  劣等感の塊である僕は、心の奥底で人を好きになることを避けていた。かなうわけがないことを前提として考えてしまうからだ。  恋は苦しい。  かなわない恋はそれだけで辛いし、かなったとしても激しい音を立てながら壊れることだってある。僕はそういうものをこの目で見たことがあるのだ。  恋は痛みを伴う。その不安は恋の喜びを覆ってしまった。  見た目から魅力的な人だし、僕だけが彼女を好きだというのはまずありえない。  人付き合いが苦手というところに望みはあるけれど、そういう人だからこそ好きという人は、僕に限らずいるだろう。誰かと競い合うのは苦手だし、上回る自信もない。  そもそも、春奏さんは二年生で僕は一年生だ。クラスが違うどころか学年が違う。あんな出会い方をしなければ、知り合うこともなかった相手だ。  だから、日常的に関わる回数が、同学年の人に比べて格段に少ない。それもまた、自信が持てない要因の一つだった。  結局、月曜日は春奏さんとまったく関わることがなかった。  移動教室や食堂へ行くときに、二年生の教室の方向を見る僕は滑稽だったことだろう。それでも、しゃべるどころか見ることもなかったのだ。  同じ敷地内にいるはずなのに、春奏さんとの距離は遠い。前途多難だった。 ○  展開があったのは金曜日になってからだった。美和ちゃんに昼食に誘われたのだ。  春奏さんを見かけられればラッキー、という虚しい日々を送っていた僕にとって、それはうれしい誘いだった。グループLEENで提案されると、当然、喜んで了承した。  僕は自作のお弁当を持ち、サギとともに、意気揚々と待ち合わせ場所へと向かった。そこは前回と同じ、渡り廊下の階段下のベンチだった。 「あ、クッくーん、サギくーん」 「美和ちゃーん、お誘いどうもー」  前回と同じで僕らが食堂へ寄っていたからか、三人はすでにそろっていた。  反射的に春奏さんを見る。すると、目が合ったからか、小さく手を振ってくれた。僕は軽く会釈する。そんなやり取りだけでもドキドキしてしまっていた。 「じゃあとりあえず食べよっか。いただきまーす」  前と同じ順に並ぶと、美和ちゃんの号令で昼食を食べ始める。サギ以外はみんなお弁当のようだった。  食事中でも会話力が全く下がらない美和ちゃんを隣にした僕は、食べるペースを犠牲にしながら、サギとともに話を聞いていた。春奏さんと牡丹さんはそれを横目にしながら、食べるのに集中しているようだった。  サギは昼食を食べ終えると、立ちあがって隣のベンチの端へ行ってしまう。押し出されるような形でベンチ上を水平移動すると、男子で女子を囲むようなかたちになった。 「クッくんのお弁当、お母さんが作ってるの?」 「ううん。自分で作ってる」 「ウソっ!? すごいじゃん!」  僕は美和ちゃんと同じベンチ上で一対一の状況になる。春奏さんはすでに牡丹さんとサギのほうに参加している。僕はそっち側が気になって仕方がなかった。 「別に、すごくは」 「なんかちょうだい。あーん」 「ええっ!?」  僕は箸でたまご焼きを掴んで固まる。これって普通にできることなのか。それとも、やっぱり冗談なのか。  美和ちゃん越しに見える春奏さんが、チラッとこちらを一瞥する。でもそれだけだった。  どうしよう、めっちゃ待ってる。口に触れないように、どうにか入れてみようか。そう思って、たまご焼きを口の高さまで持ち上げる。触れないように触れないように…… 「――も、もう限界っ! あははははははっ!」  黙って口を開けていた美和ちゃんが、ついに吹き出してしまった。どうやら、ずっと笑いを我慢していたらしい。やっぱり冗談だったのか。 「美和ちゃん!」 「あー、もうちょっとだったんだけどなぁ。困ってるクッくん見てたら我慢できなかった。では改めていただきまーす」  そう言って、美和ちゃんはさっきのたまご焼きを自分の箸を使って口に放り込んだ。 「うんうん、おいしい。こんなにきれいに焼けるなんてすごいねー。自信作とかある?」 「自信作ってほどのものは……。ほとんど昨日の晩ご飯の残りだし」 「じゃあ、それはお母さんの味?」 「ううん。昨日の当番は僕だから、自作だよ」  美和ちゃんは意外そうな顔をする。 「クッくん、晩ご飯作ってるの?」 「あ、うん。うちの母親、仕事で忙しいから」 「お父さんは?」 「父親いなくて」  そう言うと、美和ちゃんの表情から笑顔が消える。これはすぐに説明すべきだった。 「え、えっと、離婚しただけだよ。だから二人暮らしなだけ」 「そうなんだ。ごめん」 「それで、その……料理が好きで、だから晩ご飯を作るのも楽しんでるっていうか……よかったらこれ、自信作ってわけじゃないけど、ハンバーグをお弁当用に小さくしたんだ」  少し落ち込む美和ちゃんに、僕は弁当箱を差し出す。美和ちゃんはさっきよりも気を遣いながら、ハンバーグを掴んで口に入れた。 「……おいしい」 「よかった」  この「よかった」は味の評価以上に、美和ちゃんがほほ笑んでくれたからのものだった。  こうして、昼休みの楽しい時間は過ぎていく。僕はずっと美和ちゃんと話していた。  結局、目を合わせたりうなづいたりしただけで、春奏さんと会話することはなかった。  せっかくのランチの機会もしゃべれない。どうしたらいいのだろう。 ○  放課後、いつものように部活が始まった。全体で軽く合わせてからパートごとの練習になるが、それもすぐにバラされる。個人練習の時間だ。 「優希、めっちゃ気抜けてない?」 「はい?」 「演奏がしょぼい。合奏中もオーボエの音ほとんど聴こえなかったし、今もふ抜けてる」  ジッとにらまれる。これは彼女と関わるごとに増える恐怖である。 「ご――な、夏菜は順調?」 「そりゃそうよ。まじめにやってるもん」  夏菜は呆れたように言う。音で心を読まれるとは、妖怪みたいな人である。  個人練習はいつも夏菜のそばで行っていた。合わせることもあるし、ひたすら吹いて、休憩がてらにこうしてしゃべったりもする。  ちなみに、夏菜という呼び名は強制されたものだ。それには、フルートの先輩に別の「後藤さん」がいたことに原因があった。  被るとややこしい、という名目のもと、夏菜が「ファゴット後藤」だの「ファゴちゃん」だのと呼ばれだした。  こうして、元々ストレスを溜めやすい彼女の新たなストレスの源泉を掘り起こした。それがことの発端だ。  すると夏菜は僕に対し、「あんたは私を夏菜と呼びなさい。私も優希って呼ぶから。もしファゴット後藤とか芸人ネームで呼んだらどうなるかわかってるわよね」と命令した。  その高貴な笑顔は僕が夏菜の家臣かと錯覚しそうなものだった。  そうして僕は彼女を夏菜と呼ぶしかなくなった。  下の名前を呼び捨て、ということに抵抗はありつつも、命令されたのだから従うしかない。それだけでイライラしなくなるのなら安いものだった。 「僕も別に普通だよ。腕じゃないかな」 「それだったら私は何も言わないわよ。てか実力知ってるし。なめてんの?」 「い、いえ。決してそんなことは」  こんな感じだけど、彼女は僕の数少ない友人である。 「考えごと? なに、恋?」  ギクリとする。僕は無視してオーボエを吹き始めようとした。 「え、正解? 誰? 吹部の人?」 「違う……別に、そんなんじゃないよ」 「……前から気になってたんだけどさ、優希って、たまに外見て人を探してることない?」  またギクリ。たしかに窓側を見るかたちで練習しているため、グラウンドを覗いてしまうことがあった。たまに弓道部が通るのだ。まったく、夏菜が鋭いんだか僕がわかりやすいんだか。 「ねーえー、教えなさいよ。誰? どんな人?」 「な、なんでそんなに食いつくの?」 「えー、だっておもしろそう……じゃなくって、気になるじゃない」  本音をこぼしながらにっこり笑う。意外とそういうネタが好きなようだ。 「優希、奥手っぽいし、アドバイスしてあげてもいいんだけどなぁー」  エサを釣り針につけてくる。それはとても魅了的なエサだった。  夏菜はサバサバしているし、本音でしゃべってくれるから、参考になることが多いかもしれない。まあ春奏さんとタイプが違い過ぎることだけが不安だけど。 「……本当に?」 「ほら、やっぱりそうじゃない。で、どんな人? 私の知ってる人?」  さっきのにらみはどこへやら。夏菜は目を輝かせる。  僕は簡単に春奏さんのことを説明した。偶然出会ったこと、先輩と友達との五人で遊びに行ったこと。 「へぇー」  夏菜は僕の話を楽しそうに聞いている。ここで、僕は現状の悩みを打ち明けることにした。 「それで、そのあとずっとしゃべれなくて。今日、お昼一緒だったんだけど、別の先輩とばっかりしゃべっちゃって……」 「どうして好きな人とはしゃべらなかったの?」  いきなり厳しい質問が来るので、僕はタジタジになってしまう。 「聞き役に回っちゃってて。好きな人も大人しいタイプで」 「なるほどねぇ。そりゃ難しそうね」  夏菜の言葉が胸にグサッと突き刺さる。 「そ、そうだよね……」 「あ、ええっと、その好きな人とはどんなときにしゃべれたの?」  珍しく夏菜が気を遣うような笑みで尋ねる。それほどわかりやすく落ち込んでしまったのか。 「遊びに行ったとき、二人になる機会があって。そのときに」 「ふーん。二人のときは結構しゃべった?」 「しゃべった……と思う、僕にしては。その人も、しゃべりやすいって言ってくれて」 「ほーほー。二人になったらしゃべれるって、私に対してもそんな感じよね」 「たしかにそうだね」  部活の人たち数人で話す中に僕と夏菜が入った場合、夏菜はしゃべる(本人曰く社交辞令だそうだ)けど、僕は会話に入れないことが多い。夏菜はそのことを言っているのだろう。 「人見知りで緊張するみたい。でも、話してみたら結構しゃべるよ」 「なるほどね。似たタイプかあ」  夏菜はうんうんとうなづく。真剣に考えてくれているようにも見えるが、それはやっぱり楽しんでいるようにも見える。 「そんな人が好みなんだー。年上好きっぽいとは思ってたけど」 「……で、どうすればいいと思う?」 「ん?」  いや、そんな意外そうな顔されても。どんな人なのかを知って満足してしまったのか。 「アドバイス……」 「ああ、そうね……。やっぱりさ、二人で遊びに行くしかないんじゃない?」  最もシンプルかつ、最も難しいアイディアだった。それができたら苦労しない。 「そこまでが無理……しゃべれないのに誘うって」 「そ、そうね。じゃあどうしたものかねぇ。いっそ当たって砕けろ、みたいな」 「さすがにまだ砕けたくないよ……」  いきなり玉砕覚悟の突撃は、アドバイスとしてあんまりじゃなかろうか。どうやら本当に興味本位だったようだ。 「こっちは真剣に悩んでるのに」 「ちょっと待ってよ。えっと、私があんたとして、あんたみたいな女を年上の知り合いとして見立てればいいわけよね……えーっと」  ようやく、夏菜は真剣に考え始めてくれたようだ。僕は期待のまなざしで見つめる。 「グループで、か。じゃあそうして遊ぶときに……でもお互い主張しないのよね。うーん」 「夏菜って、誰かと付き合ったことあるの?」 「え? ないけど」 「そう……」  やっぱり適任じゃないような。でも考えてくれてるわけだし、野暮なツッコミはしないでおく。 「LEENとか知ってればねぇ」 「ああ、LEENは知ってるよ」 「え? じゃあすれば話せるじゃん。なんでしないの?」  なんでと言われても。僕はうーんとうなる。 「送ったことないなら、あいさつがてら送ってみてさ。そのまま話せばいいのよ」 「あの、あいさつ的なものは遊びに行った日に、向こうから送ってくれて」 「じゃあしゃべりたいならしゃべれる状態じゃない」 「ま、まあそういうことになるのかな……」  夏菜は呆れるような顔でにらむ。 「なに? LEENなら話しづらかったとか?」 「ううん。……むしろ、LEENなら饒舌なほうかも」 「饒舌って表現は正しいのか……。あ、忙しい人とか?」 「わからないけど、いつでも歓迎とは言ってくれたよ」 「は?」  もう途中から叱られることを覚悟で話していたけれど、ついに夏菜のイラだちゲージが限界値を迎える。人より容積が小さいだけに、ほんの数秒で達するのだ。 「それじゃああんたの怠惰じゃない。二人でいるのにしゃべらないようなもんよ」 「そ、それは極論――」 「やかましい! さっさと送りなさいよチキン野郎」  ああ、いつぞや見た文字が声として、しかも自分に対して使われている。  たしかに夏菜の言うとおりで、しゃべる手段はいつも携帯している。ただ、僕がその手段に慣れていないのと、勇気がないだけだった。 「でも、いつごろ送ったらいいか……。迷惑にならないかな?」 「……その人のことは知らないけど、普通、寝る前くらいはひまでしょ。テスト前でもない限り。それに、送っときゃいつか返事が来るわよ」 「そ、そうかな」 「送ってみりゃひまな時間もわかるわよ。送んなきゃ始まらないでしょ」 「ですよね……」  正論、ド正論。まったくそのとおりだった。  それでも「じゃあそうするよ!」と力強く言えるだけの度胸が僕にはない。送ったのに何も楽しいことが言えないとなると、春奏さんに気を遣わせ、かえって迷惑になる。 「……どういう用事で送ればいいかな?」 「自分で見つけなさい。私はあんたじゃないし。訊きたいこと訊けばいいと思うけど」  訊きたいこと……もちろんないことはないけれど。 「訊かれたら困るようなこともあるし、迷惑にならないかな……」 「迷惑にって、今みたいな卑屈系質問だとそりゃ迷惑よ。  でも、多少迷惑になることでも、しゃべんないよりはマシだから、本当に仲良くなりたいなら送んなきゃダメ」  仲良くなりたいなら、か。それはどうしても自分本位というか、相手のことを考えると不安になってしまう。  しかも、相手がなんでも自分のせいにしがちな春奏さんだけに、今度こそ謝罪大会が開催されかねない。  また最初の頃のようになるのは辛い。それは絶対に避けたかった。 「……優希って臆病よね。気を遣ってるとも言えるけど。じゃあさ、逆に考えたらいいんじゃない?」 「逆?」 「送らないほうが迷惑、ってこともあるかもよ」  たしかにそれは逆だ。でも簡単にできることではない。 「うーん……」 「いつでも歓迎って言われたんでしょ。実は彼女、すっごく優希からのLEENが待ち遠しいのよ。自分から送るのは照れくさい。だから、いつでも歓迎って言った」  なるほど。逆にってことは、相手視点でということにもなるわけだ。 「ああ、それなのに全然送ってくれない。優希くん、私としゃべりたいなんて思ってないんだ……。いや、むしろ嫌われてるかも。それなら、こっちから送れるわけないし……」  なんか小芝居まで混ざってきた。ちょっとアホっぽい。  でも、少しドキッとする部分もある。嫌われてるかも、というのは、春奏さんが思いそうなこと――いや、実際に思われていたことだ。そうじゃないと意思表示をしたことで、ようやく話せるようになったのだから。 「あながちまちがってないかもよ。優希と同じようなタイプなら、いつでも歓迎、なんて言えそうにないもん。本当にしゃべりたくて送ってほしいって言ったのかも」  それは、ネット上での春奏さんが強気だからだろうと思っている。でも、思い込むべきなのかもしれない。少なくとも、送っていいからそう言ってくれたわけだし。 「送ってほしい……」 「そうそう。いつからかは知らないけど、もうずっと待ってるのよ。それなのに、優希はビビッて送ってこない。彼女、困ってるかもよー」  責めるような言い回しを続ける夏菜。僕も自分が悪いことをしているような気になってくる。 「……明日にでも送ってみようかな」 「あ? 今日に決まってるでしょ」 「そ、そうだね」  こうして、僕は夏菜に宿題を出されてしまったのだった。 ○
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