第八章 春、奏で

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 ふいに、春奏さんは窓を見た。ちょうどトンネルの中で、外は暗闇だった。 「もうすぐ乗り換えだ」  春奏さんが言う。トンネルに入ったことで気付いたようだ。  ほどなくして、乗り換えの駅に着いた。ここから湖西線だ。びわ湖の西から北へと進んでいく。  ホームのベンチに腰を下ろし、電車を待つ。その間、春奏さんはジッと黙っていた。  話はまだ続くのだと思う。乗り換えで中断したのを利用し、少し休んでいるのだろう。  ちょうどいいと思って、僕は用意していたものを出すことにした。 「朝ごはん、食べた?」  春奏さんはハッとしてから、こちらを見て口元を緩めた。 「食べることできなかったよ」 「朝早かったもんね。僕もなんだ。……だから、よかったら、これーー」  リュックから箱を取り出す。そしてフタを開けて、春奏さんに中を見せた。 「――サンドイッチ! 作ってきてくれたの?」 「食べずに来るかもって思ったし、そうじゃなくてもお昼に食べたらいいかなって」  春奏さんがお弁当をずいぶん喜んでくれたから、また作りたいと思っていた。以前、真知子さんにサンドイッチ用のバスケットをもらったので、使ってみたかったのもある。これが僕の目的だった。 「うれしい! 食べたい!」 「じゃあ、どうぞ」  そう言って差し出すと、春奏さんは遠慮がちに手を伸ばした。手を汚さないでに済むように、サンドイッチは一口サイズにしてつまようじで刺していたので、それを指でつまんでいた。  その間、僕は飲み物を用意する。これも持ってきておいたのだ。 「……くーくん、女子力高すぎて焦る……」 「ええっ?」  その様子をジッと見ていた春奏さんにそう言われる。僕をいじってるように見えないから文句も言えない。僕って墓穴を掘り続けてるのだろうか。  春奏さんがパクっとそれを放り込むと、噛んでいくうちに自然と口元が緩んでいく。  渡したお茶を飲むと、春奏さんは機嫌良さそうに僕の顔を見る。 「おいしい。……くーくん、朝ごはん食べられなかったって、嘘だよね」 「え?」 「だって、これ作れたなら食べられただろうし」 「あ……うん」  そのとおりだった。あわよくば春奏さんと食べられるかなと思い、食べてこなかったのだ。 「……赤くなっちゃった――萌えだ。二度おいしい」  これが萌えと言われてしまう要素らしく、初めて面と向かって言われてしまった。嫌じゃないけど、ただただ恥ずかしい。  僕も食べ始め、二人でバスケットの中身をペロッとたいらげた。のんびりとお茶を飲んだところで、ちょうど電車がやってきた。  さきほどよりも車内は空いていて、二人用のシートに座ることは容易かった。さっきと同じように僕が窓際に、春奏さんが通路側に座った。  電車が動き出すと、また春奏さんは話し出した。 「夏休みが終わったら、美和や牡丹にも心配されて、二人が本当に優しくしてくれた。もう私二人のこと大好きで、LEENばっかりしてたよ」  辛い部分が終わったからか、今度は僕の顔を見て楽しそうに言った。 「そうなんだ」 「うん。秋音とも仲良しになったし、クリスマスは私の家に二人を招待してね、みんなで楽しかった。そうやって私、なんとか持ち直したよ」  そう言ってから、またさっきまでみたいにうつむいて話し始める。 「ただ、律を裏切ってる気持ちになる。あんなに辛い気持ちを共有してたのに、律がいなくなったら私はみんなに優しくされて。それが、なんか悪いなって……」  この前話してくれたところだ。春奏さんの不安の根となっている部分。それが律くんへの罪悪感だった。 「でも、このままじゃダメだってずっと思ってて、みんなに心配かけないためには、ちゃんと強くならなくちゃいけないって思った。それで、まずは律に会いに行かなきゃって」  そうして墓参りに行こうと思ったんだ。そこに、僕を誘ってくれた。 「春奏さん、すごいと思う」  春奏さんは見上げるように僕のほうを見る。 「ちゃんと向き合おうとしてる。春奏さんは強いよ」  心からそう思った。僕では想像もつかないような痛みがあるはずなのに、立ち向かおうとしている。以前LEENで話した時のような弱さは、そこにはなかったのだ。 「……くーくんが言ってくれたからだよ」  春奏さんはそう言って口元をゆるめた。 「え?」 「一緒ならがんばれるって。だから、くーくんと一緒なら大丈夫かなって思ったの」  胸に熱いものが流れた。春奏さんはまた僕を頼ってくれた。それも、心の深いところの弱さを晒してまでだ。  僕の役割は重大なものだった。でも弱気になんてならない。一緒にがんばれるのなら、きっと大丈夫だと僕も思えたからだ。  それから、目的地の最寄り駅に着くまで、春奏さんは美和ちゃんや牡丹さん、秋音ちゃんや楽人くんの話をたくさんしてくれた。  こんなに面と向かって話すのは初めてだったけど、春奏さんのほうにはもう緊張感なんてないらしく、軽快に話してくれた。  僕はそんな状況に慣れず、緊張を残しながらそれを聞いていた。でも、とても楽しかった。  駅に到着すると、春奏さんのスマホの地図を頼りに、霊園を探すことになった。  この辺りは山と湖に挟まれていて、空気がきれいだった。いかにも田舎町という雰囲気が心地良い。びわ湖を跨いだだけとは思えないほど、僕らの住む町とは違っていた。  天気も良いし、まさに行楽日和だ。そんな日に、僕は春奏さんと二人きりで見知らぬ土地にいる。  そこにあるのはうれしいとか楽しいではない。だからといって苦しいものでもない。僕はただ、違う世界に迷い込んだような気分で、春奏さんのいる風景を眺めていた。  地図通りに湖のほうへ進んでいき、二〇分ほど歩いていくと、特に迷うこともなく目的地を見つけることができた。  そこは、びわ湖を一望できる霊園だった。 「見晴らしのいい場所だね」 「うん。お母さんが決めたんだって。びわ湖が見えるほうがいいだろうって」  郷愁に駆られ、故郷の滋賀県へ帰ることを望んだという春奏さんのお母さん。びわ湖は故郷の象徴であり、律くんが長い時間を過ごした場所。そして、命を落とした場所でもある。  だからこそ、特別な想いがあるのだろう。  僕らは管理人さんにあいさつを済ませ、そこで借りた手桶に水を汲みお墓へ向かう。案内表を持つ春奏さんの後ろを、僕は水を持ってついていく。  春奏さんは紙とお墓を見比べるように歩く。その表情には全くと言えるほど色が見られず、無に等しかった。そして、小さな墓石の前で足を止めた。 「……ここだ」  そこにはたしかに律くんの名が彫られていた。個人墓というもので、ここには律くんしかいない。いずれは家族と一緒になるそうだ。 「まず掃除、かな」 「うん」  春奏さんにつられるように、僕は無表情で水をひしゃくですくい、墓石にかけた。元々それほど汚れていなかったので、その水を拭く作業が掃除のような形になった。 「くーくん」  ここに来てから初めて目が合った。そして、不自然なほどにっこりとほほ笑む。 「先にそれ返してきてもらっていいかな?」 「え? うん」  こんなの帰り際でいいような気がするのに。でも、返事したから仕方ない。僕は手桶とひしゃくを返しに行くことにした。  小走りで管理事務所へ向かう。まっすぐ進んで一つ角を曲がるだけのおつかいだ。事務所の前にある水汲み場の隣に収納スペースがあるので、そこにそれらを戻した。  用を済ませるとすぐに春奏さんのほうへ帰っていく。角を曲がれば先に春奏さんが見える。目を離した時間は本当に短かったことだろう。  春奏さんはお墓に向かって手を合わせていた。そうか、この時間を僕に外してほしかったんだ。自身の鈍感さに呆れてしまう。  ゆっくり戻って、僕も隣で手を合わせよう。そう思いながら歩くも、その足はピタリと止まってしまった。これは条件反射だった。  春奏さんの肩が震えている。春奏さんは……泣いているのだ。  心臓の動きが激しくなる。春奏さんと一緒の時とは似て非なるもの。僕の弱さの象徴だった。  僕は意識的に呼吸する。浅く吸って、深く吐く。このバランスが崩れてしまうと、最悪倒れてしまうことになる。  どうしよう。一度立ち去るべきか。春奏さんも一人になりたいのかもしれない。僕もこんなところを春奏さんに見せたくない。  でも……ダメだ。それでは意味がない。  力になりたいと思った。一緒にがんばりたいと思った。それなのに、ここで逃げるわけにはいかない。  春奏さんは苦しみを背負っている。僕は彼女の涙を受け止めなければならない。それができないのなら、一緒にいる資格なんてないのだ。  呼吸を維持したまま、ゆっくり前へ進んでいく。もうすぐのところまで来ると、春奏さんは僕に背中を向けてしまった。僕に気づいたからだろう。泣き顔を見られたくないようだ。 「だ、だ、大丈夫?」  僕は詰まりながらも、なんとか声を出した。 「あ……だ……」  春奏さんからの返事は言葉になっていなかった。必死に涙をこらえるような声。春奏さんは左手で顔を覆うようにしながら、右手で僕を制する。多分、大丈夫だと言いたいのだと思う。  ひょっとすると……いや、まさか。でも、だからこそ僕がしなければならないのは、春奏さんにちゃんと泣かせてあげることだ。  僕は両手で春奏さんの右手をつかんだ。それは、僕自身もすがるような感覚だった。  すると、春奏さんは顔を覆う手を外した。やっぱり、両目から涙があふれていた。  僕はその目をちゃんと見ることができた。手を握っていれば、呼吸の乱れもすぐに訂正することができたからだ。 「大丈夫」  春奏さんに対し、そして自分自身に対してそう言った。  春奏さんは僕の両手の上に左手を重ねた。そして、頭を肩に預けてくれた。  肩を震わせながら、小さく鼻をすする音がなる。僕の肩は涙で濡れる。  きっと、今僕らは一緒にがんばれている。  四つの手は、温かい一つの塊になっていた。 ○
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