第一章 近いのに遠いところ

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 赤茶色のマンション、十二階建ての八階で僕ら家族は生活している。ただ家族といっても、その実は母と子の二人暮らしだ。  カギを開けると、奥から物音がして戸が開いた。母、麻美(あさみ)だ。今日は仕事が休みなのだ。 「おかえりー。今日のご飯なにー?」 「いきなりそれか」  子供みたいなことを言われると、こっちは呆れるしかない。まるで僕が母親みたいだ。  うちでは食事係を分担しており、今日も僕の担当だった。しかし、分担とは言うものの、母さんが担当の日は、外食かお弁当しかない。  これでも、不公平ということはない。女手一つで僕を育ててくれている母さんは、スポーツ新聞社で芸能記者をし、十分な収入を得てくれている。  だからうちでは、母さんが働き、僕が家事をするというのが正確な分担であり、それが僕らの日常だった。 「だってお腹空いたんだもん。カップラーメンが切れてたから、お昼食べてないし」 「冷蔵庫に色々あったでしょ。自分で作って食べてよ」 「――ふっ、自炊のやり方なんてとっくに忘れたのよ」  母さんは悪びれずに言う。困った人である。  まあでも、大人しく作ってあげることにする。これだけ僕の手料理を望んでくれるというのは、それはそれで悪い気がしないのだ。  夕食を作り終えると、二人でテーブルを囲んだ。母さんはうれしそうに箸を手に取る。 「いただきまーす」  勢いよく食べ始める母さんを見てから僕も箸を取る。こういうのも母子が逆じゃないだろうか。 「そういえば、友達はできたの?」  思い出したように、母さんは母親らしいことを言った。僕はうなづく。 「まあね」 「男?」 「そりゃそうだよ」  そう言いつつ、昼間のことを考える。思えばLEENの交換なんて、まだサギとしかしていなかった。二人目が女の子、しかも上級生だなんて不思議なことだった。 「学校で女扱いされてない? その男の子は、ちゃんとゆうちゃんを男だって認識してる?」  冗談を言う顔をせずにそんなことを言ってくれちゃう。友達感覚で話しかけてくる母さんだけど、こういうところもなのだ。 「おちょくるとご飯作らなくなるよ」 「まじめな疑問なのに……」  なおさらたちが悪い。この人は僕を溺愛してるけど、反面とても馬鹿にしている。 「ちゃんと男子の制服着てますから」 「お、その言い方なら女顔を認めることになるわよ」  今度は確実におちょくるために言っていた。僕は静かに怒る。 「……これからカップ麺ばかりだけど、栄養には気をつけてね」 「やーん、脅迫しないでよぉ! 冗談でしょ、冗談! コミュニケーション不足だからぁ!」 「この補い方はあんまりだよ……」  思いっきりコンプレックスを突いてきてるし。母さんはあらゆる面で子どもっぽいのだ。  それに、たしかに学校が始まれば母さんと過ごす時間が減るけれど、夕飯はほとんど一緒に食べているわけだし、別に不足してはいないと思う。 「ゆうちゃんみたいな顔が好きな人もいっぱいいるわよ」 「もうその話はいいから、さっさとご飯食べてよ」 「あーん! 冷たーい! 親子の会話……」 「じゃあせめて親らしいことを言ってよ」  目を細めてにらみつけると、母さんは少し首をかしげる。絞り出しているようだ。 「――好きな子できた?」  それは親でも言いそうだけど、やっぱり友達っぽい。母さんの性質の問題だろうか。 「絞り出してそれなの……」  しかし、今日の僕はその質問を意識してしまう。ふと我田先輩の顔が浮かんだのだ。  彼女の笑顔を思い出しては胸が高鳴る。  でも、昨日の涙とその理由を考えれば、胸がストンと沈むような感覚になる。これらが相殺されると、残るものは『不安』だった。 「どんな子?」  母さんが目をしばたたかせる。いる、と受け取ったらしい。 「いません」  こっちが油断すると、母さんは芸能記者の勘を働かせる。たとえ胸の内が見抜かれてそうでも、僕は冷たく切り返し、追及を阻止しなければならない。 「教えてよぉー、私が調べてあげるから」  怖いわ。どんな母親だ。 「だいたい、まだ一週間も経ってないのに好きな子なんてでき――」  ふいにスマホが音を鳴らし、ビビりの僕はそれにビクッと体を震わせる。おもむろに画面を見ると、美和ちゃんがLEENをくれたらしい。  すぐに中身を確認すると、簡単なあいさつのようなものだった。 「……女でしょ?」  母さんがドスの利いた低い声で言った。笑顔なのが逆に怖い。僕はとっさに首を横に振る。 「話を切ってまで内容を気にしたんだから、女の子からのLEENに焦ったんでしょ」  心の動きまで見事に見抜いてしまう。普段子どもっぽいくせに、こういうところだけ鋭いのが、母さんのめんどうくささの極みである。 「……ただのあいさつだったよ」  母さんは手のひらをこちらへ差し出す。よこせ、ということか。僕は拒否する。 「やっぱり女の子からじゃない! 見せなさい! 分析してあげる!」 「やだよ。あいさつだけなのは本当だし」  母さんは浮気を追及する奥さんのような勢いだった。 「ゆうちゃん!」  今度はまじめな顔をする。ようやく親っぽくなったけれど、多分、内容は伴わない。 「……ゆうちゃんに彼女ができたら、私は一人ぼっちになっちゃうのよ」  母さんは目をウルウルさせながら言う。それは僕に対してもっとも効果的な、泣き落としという技だ。ウソ泣きだろうけど、堂に入っている。 「……飛躍しすぎだし、本当にあいさつだって」  そう言って、結局スマホを差し出した。さっきの泣き顔はどこへやら、母さんは嬉々としてLEENを確認する。 「あら、ホントね。この子、かわいかった?」  言う義理などない。僕はスマホを奪い返して、母さんをにらんだ。 「泣きまねはもうやめてよ。なんか、卑怯だ」  涙は僕の大きな弱点だった。涙を見ると落ち着かなくなってしまい、過呼吸を起こしたこともある。  そして、その原因は目の前の人であり、利用するのも母さんだけだ。 「いいじゃない。女の子の涙に弱い、なんて素敵よ。ただ、ママ以外の女に使われたくないから、ゆうちゃんの周りの女情報は常に把握したいわけよ」 「母さんは女の子じゃないでしょ」  僕は思ったことを反射的にツッコんでしまう。 「ひどーい! また泣くよ!」 「それなら、こっちはもうご飯作らないからね」  脅迫返しをすると、母さんは悔しそうな顔をして身を引いた。母さんが僕の弱みを握っているのに対し、僕は母さんの胃袋を握っているのだ。 ○  次の日は、移動教室もなかったため、サギと食堂で昼食をとる以外は教室から出なかった。当然、そうなると我田先輩たちと一度も顔を合わせることはなかった。  午後の授業になる。当日の席替えで、窓際の一番後ろ、という最も気楽な席を引いた僕は、なんとなしに外を眺めていた。  外には上半そで、下ジャージという体操服姿の女子。ジャージのラインからして、上級生なのはまちがいない。授業では50メートル走をしていた。  ひょっとしたら、と思ってその人を探す。  三人組を目で追うと、彼女たちを発見することができた。我田先輩、美和ちゃん、真木先輩は、これからそろって走るようだ。  僕はそれをジッと眺める。なんとなく目が離せなかったのだ。  合図とともにスタートする。スッと先頭に立ったのは、なんと我田先輩だった。その後ろに真木先輩、少し遅れて美和ちゃんが走る。  最後までその状勢は変わらず、ゴール。我田先輩が一着。僕のイメージとはまったく逆の着順だった。  でも、走り方から美和ちゃんが遅かったとも思わないため、結構ハイレベルな戦いだったのではないだろうか。弓道部と剣道部でも、やっぱり運動部だと速いものなのか。  先生の視線の感じたため、僕はあわてて意識を教室に戻した。改めて授業に集中しようとする。  しかし、意思に反し、どうしても我田先輩のことが頭に浮かんでしまうのだった。 ○  放課後。今日から吹奏楽部の活動だった。本日の内容は楽器を決めることだけなので、僕はわくわくしていた。こういう行事にはいつも期待してしまう。  しかし、楽器を替えてみようかな、なんて考えていたのは種類ごとの説明を受けていたときだけだった。  一年生の志望者どころか、現在演奏者のいない寂しいオーボエを見て、僕はすぐそれに決めたのだ。  次に、パート練習の説明を受けた。  どうやら、オーボエはファゴットと共に、フルートと一緒のグループへまとめられるらしい。強豪校とかだとオーボエ&ファゴットでパートが作られることも多いけど、ファゴットも一人のようなので、そんなものなのだろう。  音楽準備室へ行って自分の使うオーボエを選ぶと、今日はあっさりお開きとなった。 「オーボエくん」  妙な呼び名で呼ばれる。一瞬遅れながらふり返ると、そこには同じ学年の女子が立っていた。彼女をマネるなら『ファゴットさん』である。 「な、なに?」 「……フルートのところには別に来なくていいって。基本個人練。あと、遊牧民」  ファゴットさんはつっけんどんに言う。僕には最後の言葉の意味がよくわからなかった。 「……やっぱり聞いてなかった。だから、あたしら遊牧民」 「そ、その……遊牧民って?」 「あれ、言わない? 曲によって他のパートで練習するの」  そういうの遊牧民って言うんだ。……本当だろうか。 「聞いてなかった、ごめん」 「まったく……。ま、これはマイナー楽器の宿命よね。それで、なんか連絡することあるだろうから、LEEN教えて」  突然のことに、僕はとまどう。すると、ファゴットさんもいいかげんイライラしたのか、露骨に嫌な顔をする。 「……なんでそんな意外そうな顔されなきゃなんないのよ!」  そして爆発。……そんなに怒らせるようなことだったのだろうか。 「あ、あの、ごめん」 「ただでさえ適当な部活にイラついているんだから、このくらいちゃっちゃとしてよ! てか男のほうから気を利かせてよ!」  どうやら、他でたまったストレスが、ちょうど僕のところで爆発したようだ。僕は小さい頃にしたばくだんゲームを思い出した。 「すみません……」  謝りながら、僕は急いでスマホを取り出す。ついさっきサギにLEENの交換方法を教えてもらっていたことを活かし、なんとか淀みなく済ませることができた。 「はい、これで完了ね」 「うん。ありがとう……」 「礼とかいいし。ってかさ」  彼女はそう言って顔を近づけてくる。僕はまた動揺する。さっきから圧倒されっぱなしである。 「この部、適当過ぎじゃない? そのあたりどう思う?」  ジトっとした目でにらみをきかされる。なんか不良に絡まれているような気分。 「強豪校とかじゃないし、こんなものじゃないかな」 「それにしてもよ。人数少ないからフルートと一緒ってのはまあわかるけど、初日から放任宣言されちゃあ一年としたらどうしようもないじゃない」 「それはそうだね」  僕が苦笑いで肯定すると、彼女はやっと怒りを鎮め、大きくため息をついた。 「とりあえず、実質ファゴットオーボエパートみたいなもんだから、ここは繋がっとこう。ナチュラルにハブられそうな感じだしね。というわけでよろしく」 「よろしく。えっと……」  そういえば、ファゴットさんの名前をまだ知らなかった。 「ああ、私は後藤(ごとう)夏菜(なつな)。一年B組」 「僕は九十九優希。一年A組」 「ツクモ? キュウジュウキュウって書いて九十九?」  後藤さんは、僕の苗字の漢字を一瞬で言い当ててみせる。僕は素直に驚いた。 「すごい、よくわかったね」 「そう? 珍しい苗字として逆に有名じゃない? まあ実際に会ったのは初めてだけどさ」  そう言ってほほ笑む。初めはきつそうな人に見えたけど、普通に話せそうな人でよかった。  僕らは玄関口までの間、中学時代の吹奏楽部の話やクラスの話をしながら歩いた。と言っても、僕はほとんど相槌を打っていただけだったけれど。  彼女はバス通学らしく、そのまま校門を出ると、正面にあるバス停へと向かっていく。 「明日からよろしくね」 「うん。まあ個人練ばっかりだろうけど。あ、でもいい場所とか見つけたら共有しよ」 「うん。ありがとう」  僕の言葉に、彼女は違和感を覚えたようだ。たしかにお礼を言うのは変だった。それでも、小さく手を振ってくれたので、僕も同じように返した。  背中を向けて歩き、見えなくなるところになると、僕はホッと一息ついた。緊張はしたけれど、同学年で同じ部活の顔見知りができてよかったと思う。  彼女に対し、自分がどう接していたのかをふり返る。最初は詰まることもあったけど、ある程度は普通に話せたはずだ。  冗談交じりに責められたことで、かえって打ち解けたのかもしれない。そうまとめると、ようやく落ち着いてきた。  それにしても、この心の揺れにいつか慣れる日が来るのだろうか。もっと大人になれば、みんな当たり前のように身につくのだろうか。出会いの不安を時間で浄化する以外の方法を、僕はまだ知らなかった。  太陽がもうすぐ夕日になろうとする時間の帰り道。僕は前を歩く女生徒に目を留めた。心臓がドキッと波打つ。  信号待ちで追いついて、こっそりと確認する。その人は、我田先輩だった。  今日、弓道部は休み?  徒歩通学なら、家が近いの?  色々としゃべりかけられるようなネタはある。でも、勇気が僕にはない。まだ涙のトラウマもあるし、それは我田先輩にとってもそうだと思う。  僕はただぼんやりと先輩の横顔を眺め、信号が青になると、バレないようにとばかりに、わざと遅らせて後ろを歩く。  やがて、自然に先輩と道が分かれる。先輩はきっと近いのに遠いところに住んでいるのだろう。なんとなくそう思った。
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