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足音は、緋月から少し離れたところで止まった。
「ここでなにをしている」
怒っているのかと思うほど、低い声。しかしその声は不思議と耳に心地よい。緋月は軽い調子で答えた。
「空の観察、かな?」
相手がまた雪を踏み締める。男の足で三歩程の距離になっても、緋月は後ろを振り向かない。灰色の空を見つめたままだ。
男の溜息が聞こえた。だいぶ呆れてしまったらしく、深い溜息だった。
「……風邪をひくぞ」
「カゼ? それって美味しい食べ物なの?」
ふざけてみれば、後ろにいた男がさらに一歩近づいた。
「腹が減っているのなら、来い」
緋月は空を見上げたまま、なにも言わなかった。淡々とした声で、男は言葉を続ける。
「おまえは空を観察しているのではなく、『死んだらこの空を飛べるのだろうか?』、などとふざけたことを考えていただけだろう」
疑問ではなく、確信した声で言われる。
――初めて、緋月は振り返った。
その表情は空腹と寝不足で疲れきった、今にも倒れてしまいそうなものだった。しかし緋月は、笑った。嬉しそうな顔で。
緋月は自分の考えを当てた男を、楽しそうに見つめた。
男は、腰まである長い黒髪を結びもせずに垂らしていた。漆黒の闇が糸になったように艶やかで美しい色だ。降り続ける雪で濡れて、妖艶にさえ見える。髪が傷んでいないところを見ると、髪の質が良すぎて結べないのだろうか。
そしてややきつめの黒い瞳には、あまり感情のなさそうな光を宿していた。黒曜石のように綺麗だというのに、勿体ない。
だがとても眉目秀麗である。見ていて飽きない。
「お兄さん……にしては少し老けているね。でもおじさんにしては若いかな。まあ、いいや。お兄さん、当たりだよ」
疲れた顔をしているのに、表情はそう見えない。ニコニコと、子供らしく無邪気に笑う。
「俺は疲れているし、お腹も空いている。空を見ていたのも、雪が降る中、灰色の空を飛ぶのも幻想的でいいなあ、なんて考えていただけ」
緋月は岩の上から降りた。真っ赤な裸足の足が、少し凍った雪に沈んで痛む。緋月は、男の足であと二歩だった距離を縮めた。
「わあ、よく見れば、お兄さん美形だね」
空ではなく背の高い男を見上げ、笑う。男は眉ひとつ動かさずに緋月を見つめた。
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