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第一章 迷いと、不安と
1
吐く息が白い。
僕はかじかむ手に息を吐き掛けながら、ベランダから境内を眺めていた。
十二月も間もなく終わりを迎えようとしている。
世間は現在冬休みであり、僕ら受験生は追い込みも追い込みの時期である。
もう三日もすれば年が明け、受験まであと少しを残すだけになる。
浅草の一件以降は特段不可思議な事件に巻き込まれる事もなく、僕は日野さんの指導のもとでどうにかこうにか受験勉強をこなす日々を送っている。
境内では地元の町会の協力で新年の準備が進んでいて、また参拝客でごった返す三が日が目前に迫っているのを感じさせた。
「フハハ。かような場所でボケっとしていて風邪を引いても知らぬであるぞご主人」
背後から声がして振り向くと、屋根の上からサクラが顔を出した。
大晦日からの祭礼の準備を手伝っていたのか、今日は神職の装いだ。
「ああ、ずっと過去問と睨み合ってたら流石にちょっと眠くなってきたからさ。外の空気吸って眠気を覚まそうかと思って」
「ンフフ」
「な、何だよいきなり」
「ここ数日は咲が実家に戻っておって尻を引っ叩く人間がおらんから、そろそろ気の抜けた発泡酒の様になる頃かと思っておったが」
「……お前、人の事を何だと思ってるんだ」
「フハハ、失敬失敬」
ジト目で睨む僕を横目に悪びれる様子もなく、サクラはカラカラと笑った。
日野さんは普段遠方勤務のお父さんが年末で帰宅している事もあり、ここ数日はこちらへは顔を出していない。
昨年の夏の事件以降あまりに朝霧家に居る事が当たり前になっていたため、どうしても感覚が麻痺しているのだけれど、本来はこれが自然と言えば自然なのである。
日野さんのお父さんもちょっと風変わりな人で僕や日野さんの知らない所で爺ちゃん婆ちゃんとも何度か会っているらしく、月の半分近く日野さんが朝霧家に滞在していると言うあまりに特殊な状況に特別反対もしていないのも不思議な話である。
……まあ、実際。
日野さんが我が家に出入りするようになって一年以上経つと言う割に一般の親御さんが心配するような事は何一つ起きていない。
誓って言うが、何一つ起きていないのである。
色々すっ飛ばして娘みたいなポジションの鈴音やなんかが増えたりはしているけれど。
この曖昧で奇妙な形を続ける事が良いことなのかそうでないのか、正直迷いはある。
でも今は受験の追い込み時期だ。
自分のリソースを割いて僕の勉強まで見てくれている日野さんに余計な考えで負担をかける事はしたくなかった。
いや。それもまた自分に対しての言い訳なのかもしれないけれど。
「いやはやしかしもう歳末とは、どうしてなかなかここでの暮らしは退屈せぬであるよ」
少し遠くを見るようにサクラが言った。
「ひとところに留まって、これほど多くの者達と関わりながら暮らした事は私も経験が無かった故な。煩わしいと思っておったが、どうして中々、悪くないのである」
思えば、ここへ来る前にどんな暮らしをしていたのか、あまり詳しく話してくれた事がないせいで、サクラの身の上の事は未だ謎が多い。
妖魔退治をしていたとか、生前の母さんとも交流があったみたいだけれど。
「母さんと一緒にいた頃って言うのは、こんな感じじゃなかったのか?」
「淑乃とは確かにしばらく共に過ごしたが、当時は私があまり好んで人と関わらなかったのでな。友と呼べるのはあやつくらいで――おっと、珍しく『せんちめんたる』な気分になると口が軽くなっていかんであるな」
「……またそうやってはぐらかすんだから」
「フハハ、そうであったか?」
「お前、母さんの話になると毎回じゃないか」
「ンッフフ、言ったであろう。一人前になったら話してやると」
「一人前って……そんな漠然とした括りで……」
「少なくとも、自分の立っている場所と進む方向くらいは自覚せん限りは合格とは言えぬであるな」
「ぐぬ……」
「それに――」
「……まだあるのか」
頬を引き攣らせた僕に、サクラは少し意地の悪い笑みを向けて額を小突いた。
「ご主人の抱えておる迷いは差し当たり、他にもあろう? 例えば……身近な人間に関する話……とか」
僕の顔が一瞬で真っ赤になって行くのを見て吹き出しながら、サクラはベランダから身を躍らせて社殿の方へ跳んで行った。
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