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涙酒
気に喰わぬやつがいた。
そいつは人間であった。
人間など、大抵は馬鹿と阿保だとは常々思っていたが、そいつは飛び抜けて馬鹿な阿保だった。
夜な夜な神社で酒盛りをするのである。ひとりで。
特に暴れるでもない、ただの酔っ払いではあるが、何をしたいのかさっぱりわからぬ。
「今夜もいい月だなぁ……なあ、そう思うだろう」
しかも、決まって己に絡んでくるのがとんと理解できなかった。
「いいにおいがするなあ、お前は」
そうやって体をこちらに凭せ掛けられても困る。
何を求めているのだか。
「なあ、お前さん」
言葉を返すこともない、杉の木の己に。
“彼奴を出入りすることがないよう出来ぬものか”
ぽつりと呟くと、稲穂色の尾が煩わしげに揺れる。
“どうも出来ぬと言っておろうが。害があるものでなし”
“こちらに絡むのは害があるのではないか”
“それは知らぬ”
つれない返事。杉の木の精は微かに落胆する。
彼が身を置く稲荷神社の神狐に助けを求めた結果がこれ。
あの人間さえいなければより平穏になろうというのに、存外狐は縄張りに寛容だった。
これがあの人間が時折神社に供える稲荷寿司の効力だとしたら、悲しめばいいのか呆れればいいのか迷ってしまうのだが。
ほくほく顔でおこぼれに預かる神の使いの姿には嘆かわしさを感じはする。
“……そもそも、それほどに嫌う者か?”
ほくほく顔の狐にはわかるまい。
杉の木はただひたすらにそこに在るだけのモノである。己に進んで絡みに来る者など、奇特としか言いようがない。
その、奇特な人間が神社に来るようになったのはここ一年あまりのことだ。
きっかけはなんだったか、忘れた。
とにかく宵も更けた頃ふらっとやって来ては、貧乏徳利一本の酒をこれまた辛気臭い杯でちびちびと呑んで行くだけ。
杉の木の根元に腰を落ち着け、ただただ宵闇の空を見上げては酒をかっくらう。
ひとりごとのようなものを言っていると思ったら、全部こちらに向けたものだと気付いた時には狂っているのかと勘繰った。
だがその人間の目は酒に浮かされながらも静かで、要するに馬鹿なのだろう、と結論づけて納得した。
そいつは、帰り際まで馬鹿であった。
決まって、最後の一杯を杉の木の生える地面に落として去っていく。
嬉しくもなんともない。
あの阿保が去った後も撒かれた酒精の匂いが残るようで、甚だ不快である。
“そうは言っても、おぬし”
何もわかっていない狐は言う。
“そう嫌な顔をしていないではないか”
何もわかっていないくせに、知ったようなことを言う神狐だった。
また馬鹿人間が来た。
どうにか追い出せないものかと考えを練っていたのだが、何やら今夜は妙だった。
腰を下ろす場所はいつもの定位置、嘗める酒も注ぐ徳利も杯も同じ。
なのに一言も喋らぬ。
虚ろな夜目にもさらに暗い顔で黙々と杯をあおる。
酒を身の内に取り込むだけの動作ならばわざわざこんな所でやらずともよいだろうに。
阿保は、常よりずっと速く酒を呑んでいて。
月が映す木の影が拳ひとつ動くあたりで吞み干す所を、指三本分のあたりで最後の一滴を杯に落としてしまう。
今日は全て呑んでしまうのだろう、そう杉の精は思った。
それなのに阿保は杯に一旦唇に寄せたまま、じっと虚空を見つめるばかり。
つい、と眉根が寄る。
切れ長の眼が潤みをたたえて弓なりに歪んだと思えば、手のひらがそれを覆い隠す。
息遣いが、唇につけられた杯に満ちる酒の水面を揺らして、写し身の月を切なげに震わせていた。
その日、阿保は帰らなかった。
酔いが回ったか、一歩も立てぬとひとしきり嗚咽を漏らした後、酒だけは捨てて寝入ってしまった。
“……愚かものめ”
それをどうして己の足元でやるのだか。さんざん罵っても奴には聞こえまい。
折悪く肌寒い季節だった。
夜になれば霜が降りようかという寒さでは、うっかり凍りついて二度と目を開けぬということもありうる。
神聖なこの場を汚すわけにもいかない。
納得出来ないまま、杉の精は馬鹿な阿保に暖かな気を掛けてやった。
“明日、きっとお前は何も気付かずに起きて、去っていくのだろう。……この、愚かもの”
涙の跡を頬につけた男の顔は、ひどくあどけなかった。
「……これ、五寸釘か?」
無遠慮な男の筋ばった指が、幹を撫でる。
そこに穿たれた深い穴をなぞられて、やめろと言ってやりたかった。
いつもの宵だ。
馬鹿は相も変わらずやってくる。
この間のようなことはあれから一度もなかった。
追い出されることもなく、悠々と酒を呑む。
その中で、ふいに顔を逸らして杉の木に触れてきたのだ。
身を凭せ掛けることはあっても、その手が意思を持って触れることは今までなかったものだから、ひどく杉の精は驚いた。
馬鹿が言うように、幹には肩より下のあたりに穴がいくつも空いていて、全て五寸釘で打たれたものだ。
人間とは馬鹿な生き物だ。勝手に他者を恨み、その思いにとっつかれていとも簡単に狂っていく。
苦しいところからは逃げればいいのに、無駄に戦おうとするあたり馬鹿だと思うし、しかも縋る術が呪いなのだからお笑いだ。自分の身を危険に晒してまで、どうして相手の不幸を願うのか。
丑の刻参りというのが一時流行ったことがある。
人型の藁人形に恨みある人間の一部を籠め、どこぞのご神木に五寸釘で打ち込む。
その時の格好もまあ珍奇としか言いようがなく、白装束に蝋燭の灯る鉄輪を頭にはめ、顔を赤く塗りたくる。
もう一つおまけに誰にも見られてはならぬ、などという条件も付いているが、杉の精が見ているのでお気の毒としか言えない。
そんな丑の刻参りをする場所に選ばれてしまうのが幾たびかあって、神主らを悩ませていたということだ。
まあ、きっと呪いはかからなかったか、かけた者が死んだかしたのだろう。
しばらくすればぱったりと呪いを行う人間はいなくなった。
できればやる前に考えてもらいたい。
「……ひどいなあ。痛かったろう」
そうすればこんな馬鹿に憐れまれることはなかったろうに。
「まあ、余計なお世話か」
そうとも。
「強いなぁ。こんな深く穴が空いているのに、生きているなんて」
人間が脆弱過ぎるだけだと思うのだが。この傷は、全体から見ればそう大きなものではない。
「強くあれたらいいなぁ、俺も」
知ったことではない。
「……死にたくないなあ」
怖がるだけ、無駄なのに。
最後の言葉が震えていたことは、知らん顔をしてやった。
その日から、男は神社に来なくなった。
ひと月たち、ふた月たち、馬鹿な阿保はいつまで経っても来なかった。
“死んだのであろうな”
淡々と言ってやる。
狐は、黙って耳を伏した。この神狐は、変に人に甘いから、きっと悼んでいるのだろう。
男からは、病の気がしていた。
なんという病かは知らぬ。ただ、来るたび生力を削ぎ取られているのはわかった。
“愚かなことよ”
こんな所に足繁く通ってひとりさみしく酒を呑むよりも、他にやるべきことがあったろうに。
稲荷に賽銭を投げて、形ばかりの礼をする代わりに祈りたいことがあったろうに。
寒空の下で眠るよりも、一杯の酒を交わすよりも、大切なことがあったろうに。
“なんて、馬鹿な”
狐は、何も言わない。太い豊かな尾が頬を撫で、包み込む。
“なんて、おろかな”
ぽたりと、酒精の甘い香りもない、塩辛い水が地面に落ちて、音もなく吸い込まれていった。
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