月の使者

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月の使者

グラスの縁にうさぎがちょこんと座っていた。 グラスの中には僕のお気に入りのカクテルが入っている。夏の澄んだ夜空のようにきれいで口に含むと瑞々しく弾けるとても美味しいカクテルだ。それから大きめに割った氷が三つ。氷は三つと決まっている。それ以上でもそれ以下でもいけない。これは大事なこだわりである。 今日は満月だった。仕事終わりの夜、いつものようにベランダに出ると、紙を丸の形に切って空に貼り付けたような平坦な月がぽっかり浮かんでいた。平坦に見える月にもよく見れば模様があって、昔の人は餅をつくうさぎとか老婆の横顔とかそこにいろんな生き物を想像したようだ。想像力の豊かさに感服せずにはいられない。 僕の仕事は一日中コンピュータの前に座って文字を打つことだ。永遠になくならない文字を打って紙にすることでお金をもらっている。そのせいで最近はなんでもぺらぺらの紙きれに見えてきて困る。夜空も月も、あるいは僕もじつは一枚の紙きれでできているんじゃないのかな。 とにかく僕は、そんな妄想を膨らませながらいつものようにベランダでカクテルを飲んでいた。平坦な月、黒々とした街の景色、風のない夏の夜。まったくもっていつも通りの光景だったーーグラスの縁にうさぎが乗っていること意外は。 そいつはとても小さなうさぎだった。なにしろグラスの縁に乗るくらいである。親指ほどの大きさだ。指人形みたいだがそうじゃない。小さなうさぎは耳をピクピク動かし、黒いダイヤとも呼ばれる真っ黒なイチジクのような美しくつぶらな瞳をこちらに向けて不思議そうに少し首を傾げている。 僕は目を疑った。誰だって疑うだろう。目の前にうさぎが、親指ほどの小さなうさぎが、たった今飲もうと手を伸ばしかけたカクテルグラスの縁に乗っていたら。 酔っているのだろうかと思ったが、それほど飲んだわけでもない。意識ははっきりしている。そして僕が手を伸ばしかけたグラスの縁には、見間違えようがないほど明確にうさぎが座って小首を傾げている。 不思議そうにしたいのはこっちだと少し苛立ったが、それでは大人気ないので(うさぎの歳が幾つなのかはもちろん知らないけれど)、僕は伸ばしかけた手を引っ込めてうさぎを観察することにした。 うさぎは小さな手の先をカクテルにちょっとだけつけてぺろりと味見をした。そしてベテランのバーテンダーみたいに満足そうに頷いた。 それからうさぎは手にしていた黒いなにかを耳に当ててなにか話し始めた。それは携帯電話だった。しかも僕が持っているのと同じメーカーのスマホだった。こんなに小さな機種があるとは知らなかった。 うさぎは耳が頭の上にあるため、スマホを耳に持っていったり口に持っていったりなにやら忙しそうだった。早口で喋りながら時々頷いたり手を叩いたりしている。なんだか楽しそうだ。 うさぎが電話を切ってグラスの縁に座り直した。元から座っていたのだが、ポジションの確認をするように何度か腰をずらしたりしていた。 少ししてどこからともなく仲間がやってきた。つまり小さなうさぎたちの集団だった。みなだいたい同じような顔をしていた。 うさぎたちは馬のいない馬車みたいな妙な乗り物に乗っていた。グラスのうさぎはおまえも乗れと言うように小さな手を招いている。 僕はポカンとし答えるのに少し間があいた。しかしすぐに我に返って、 「いや無理だろ」 考えるまでもなくサイズ的に無理だった。 うさぎはいかにも残念そうに首を振った。むしろどうして乗れると思ったのかわからない。 うさぎたちの馬車(馬はいない)は楽しそうな音楽を鳴り響かせながら空に還っていった。 グラスのうさぎが座っていた部分はほんのりと温もりがあった。僕はぬくもりがないほうに口をつけてカクテルを飲んだ。カクテルは冷たくて甘くて口の中で瑞々しく弾けた。 空を見上げると、平坦に見えた月の模様がさっきよりも色濃く見えた。うさぎの形に見えなくもない。宴をしている様子を想像してみた。 惚れ惚れするほど見事な満月だった。 またつぎの満月の夜も、あのうさぎはやってくるかもしれない。また会えたらいいと僕は思った。 月明かりの下で、今度は小さなグラスも用意しておこう。
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