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15話 残り香
とろとろんに蕩けた希望は、次の日もその調子で蕩けていた。
ホテルを出た後、まず破り捨てた服の詫びということで新しい服をライに買ってもらったし、そのままデートしてくれたし、希望の行きたいところに付き合ってくれた。
希望は昨夜のことをすっかり忘れて、ライとの休日に浮かれて、思う存分楽しんだ。
だから、希望がそのことに気づいたのは、家に帰ってシャワーを浴びようとした時だった。
「うわっ……」
鏡を見て、希望は引いた。
キスマークや噛み跡はいつものことだ。
しかし、手首や足首、太股、首、拘束具をつけられたところすべてが赤く擦れて、跡になっていたのは、さすがに引いた。
服を試着する時は気づかなかったが、こんなにも跡になっていることを目の当たりにすると、昨夜の怒りや不満が蘇ってくる。
希望は根に持つタイプだった。
「跡が酷いんですけど!」
希望はライの前に仁王立ちして言い放った。
一旦落ち着こう、とシャワーを浴びたが、擦れた跡はじんじんと染みて、希望の怒りは収まるどころから沸々と膨れあがる。
そういうわけで、今ライの前には、ほかほかとした感じの、風呂上がりの希望がタンクトップとショートパンツの姿で仁王立ちしている。
ライはソファに座って雑誌を広げていたが、希望を見上げた。
「……ああ、なに? 今気づいたの?」
ハッ、とライが馬鹿にしたように笑ったので、希望は頭に血が上る。
風呂上がりで紅色に染まっていた頬が、ますます赤くなった。
「服は破くし! 変なの使うし! ライさんの馬鹿! スケベ!」
「服なら買ってやったし、その『変なの』使われて悦んでたのお前だろ」
「悦んでない!! それに、俺が行きたかったのお風呂が透けてて大きくて、ベットも大きいふっつ――のラブホテルだったの! あんなガチなとこじゃなくてよかったのに! お風呂入れなかったし!」
「ああ、そうだろうな。そうだと思ったよ」
「え?」
ライがバシンッと大きめの音を立てて雑誌を閉じて立ち上がり、希望を見下ろす。
一気に形勢が逆転して、希望はおそるおそるライを見上げた。
「お前、甘く見てるみたいだったからさ」
ライが希望の顔を覗き込むように、ずい、と近づいてきたので、希望はぎくり、と身体が強張る。
「だからちょっと思い知らせてやりたくて、わざわざあんな場所連れてってやったんだろうが。趣味じゃねぇのに」
「あ、はい」
希望は思わず返事をして俯いた。
「それに」
「……?」
俯いた希望の頬をそっとライの手が撫でる。
希望が優しく手に導かれるままに、上を向くと、目を細めて優しく微笑むライと目が合った。
「もっとえげつない部屋に連れ込んでやってもよかったけど、可愛いお前が怯えちゃ可哀想だから、楽しそうな部屋にしてやった俺の優しさ。……わかってくれるよな?」
〝これ以上甘えたこと抜かすな〟
と、希望には聞こえた。
「は、はい……」
「いいこだ」
そう言って、ライは希望の額に優しくキスを落とした。
「わかったら大人しくベッド行ってろ」
「あ、……はい」
希望はライが自分の横をすり抜けて風呂場へと向かうのを静かに見送った。
***
寝室のベッドの前で、ライは呆れたようにため息をついた。
「まあ、そうなるだろうなとは思ってた」
「ふぇ……?」
希望はベッドの上で、シーツに包まってもぞもぞ、ふにゃふにゃと転がっていた。
半分寝ぼけているような目でライを見て、ふふふ、と笑う。
「なにニヤニヤしてんだよ。起きろ。犯すぞ」
ライが希望の横に座って、ベッドが沈む。
脅しのようなライの声すら、今の希望には低く静かに響いて心地よい。
「昨日、よく眠れなかったからぁ……」
「寝てただろうが。人の腕、抱き枕みてぇにして」
ライの声が遠くに聞こえる。ふわふわと意識が雲に包まれていくような気がした。
「ん……、でも……」
ホテルのベッドの清潔でパリッとした石けんの微かな香りは嫌いではなかった。
ライのベッドと似ている。人のぬくもりを感じない、真っ新な感じ。
けれど、ライのベッドにはほんの少しだけ、あの激しい情事の最中を思い起こさせる残り香がある。
情事の最中は、ドキドキして、どうにかなってしまいそうで怖くて、たまらなくなるのに、今こうして微かな香りに包まれていると何故か安心した。
「ライさんと、ここでいっしょに寝るのがいちばん好き、かも……」
そう呟いて、希望はうとうとと微睡む。
夢と現の境を彷徨うような感覚が心地よく、意識がゆらゆらと揺らめく。
昨夜は無体を強いられ、疲れ果てた身体は暖かさに包まれて、力が抜けていく。
このまま深く沈んでいきたいのに、肝心なライがいつまでも隣に来てくれなくて、希望は不満だった。
ライがいてこそ、希望の安眠は実現するのに。
「んっ、んぅぅー……? ライさぁん……?」
希望は目を瞑ったまま、腕を伸ばしてライを探す。
ライさん、ライさん。俺の隣、空いてますよ、と腕を伸ばしているとライに触れた。
あっ、ライさん、と喜んだのもつかの間、次の瞬間には逆に腕をがしっと強く掴まれる。
「ん、……ん?」
そのまま希望の腕はベッドに縫い付けられるように押さえ込まれる。
ずっしりとした重みと、瞼越しの光が遮られて、ライが覆い被さったのがわかった。
「んぅ……? らいさぁん……?」
「……お前さぁ」
希望がゆっくりと目を開けようとすると、ライの低い声が降り注ぐ。
「……これ以上甘えたこと抜かすな、って言ったよな? あ?」
ぱちんっ、としゃぼん玉が弾けた気がした。
眠気がどこかへ飛んでいって、希望がぱっと目を開ける。
希望が見上げると、ライが怖い顔をしていた。
眉を寄せ、鋭く希望を睨む眼差しは、最愛の恋人に向けるそれではない。
唸り声が聞こえてそうな獰猛さを押し殺しているかのようだった。
何かわからないけど、ライの逆鱗に触れたと希望は気づいた。地雷を踏んだとも言う。
希望は猛獣を前にした仔兎のようにふるふると震えてしまった。
けれど、どうしても、本来心も見た目も狼ちゃんであるはずの希望は反抗せずにはいられない。
理不尽に屈するわけにはいかなかった。
なぜなら、希望は主人公だからだ。
そう簡単に何度もヤられて、オチてたまるか! ナメないでほしい!! と希望は思った。
希望は意を決して、潤んだ瞳でライをキッと力強く睨み、震える唇を開く。
「い、言ってなかっ、ァアッ?! あぁぁぁぁっ……!」
希望が狼ちゃんであろうが仔兎であろうが、希望の反抗をライが許すはずはなく。
希望の安眠はあっさりと遠ざかっていくのであった。
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