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01
「陛下、これは……」
ざわざわとしている周囲の中で、一際大きな声が少年の耳に飛び込んできた。
「今までは成人した神子ばかりだったのに……」
先ほどとは違う人間の、動揺する声。少年が立ち上がると、更にざわめきは強くなる。螺子が緩んでいた眼鏡がずり落ちそうになった。慌ててかけ直すと、今度はハッキリと周囲が見える。
どこだろう、ここは。
高級ホテルにありそうな、豪華なシャンデリラが煌々と部屋の真ん中を照らしている。しかしその明るい光の下を避けるように、四隅の薄闇の中にざわめきを発する者たちはいた。
「つまらぬな。こんな貧相なのは初めてだ」
低く哂う声がした。振り返った先にいたのは、吸血鬼をイメージさせる黒ずくめの格好をした、背の高い男だった。
「ようこそ、我が国へ……と言いたいところだが。我ながらハズレを引き当ててしまったようだな。神子を引くつもりが、とんだ貧乏くじだ」
黒い服に黒いマント、やけに青白い顔。その口もとには気味の悪い笑みが浮かんでいた。顔かたちは整っているだけに、余計にその不気味さが際立つ。
「お前の召還は私の本意ではなかった。――よって、温情をかけてやろう。私と一つ賭けをしようじゃないか、異世界の子ども。駄犬を人のかたちに戻すことができたら、お前を元の世界に戻してやろう。できぬなら、飢えた犬の餌にでもなればいい」
薄暗い隅でわだかまっている影たちが一斉に笑い声を立てた。何が起こっているのだろう。これは、夢なのだろうか。夢だと分かっていて見ている、夢なのだろうか。
何か言わなければと思うのに、喉が渇いてひりついている。何も言葉を発することができないまま両脇を二人の男に抱え上げられてしまった。そうして、少年は蝋燭の灯りだけが頼りの闇へと放逐されたのだった。
***
背後に感じる気配。目はなかなか暗闇に慣れず、しばらくはただそこにじっとしていることしかできなかった。
夢の世界の住人とはどうやら言葉が一致していたらしく、言葉は聞き取れたが、その意味は理解できなかった。犬を人に戻せと言うが、それではまるで童話の世界だ。
軽く金属が触れ合ったような涼やかな音がした。鎖が、よじれたような音が。そして、呼吸音。人間とは違うそれが、先ほどの男が言っていた『犬』のものなのだろうか。
「こ……こんにちは?」
相手が犬だったら、さすがに夢でも言葉は通じないかもしれないが。少年の問いかけに答えたのは再び金属がこすれあう音ばかりだ。自分と獣らしきものと。二つの呼吸音だけが全ての世界。唯一の光であるはずの蝋燭は鉄格子の柵へとくくりつけられている。少年はその光源へと近づき、そっと手を伸ばした。
「あっついッ!」
火がゆらめいたのと同時に、灼熱が少年の指先を襲った。そのショックで目が覚めても良いはずなのに、ただじんじんと痛む指先の感覚と共に少年は相変わらず暗闇の中だ。腰が、抜けた。まだ夢の中だと信じてはいる。なのに指先に増していく痛みが、それを信じさせようとしてくれない。唯一の灯りだった蝋燭の火は少年が動いたせいで消えてしまった。
先ほどよりもずっと眩しい光が一気に檻の中に差し込んできた。思わず新しい光の源へと視線を転じると、少年の視界にうずくまる大きな獣が映った。その四肢や首には細い鎖が幾重にも巻かれている。
――犬? それにしては、とても大きい。
あの希代の吸血鬼に風体が良く似た男は、犬と言っていた。しかし、少年の眼前で寝そべるようにしているのはそんな可愛いものではない。いや、少年の知るどれよりも、それは立派な体躯をしていた。ふらりと少年の体が動く。後ろへではなく、獣の前へと。
『……それ以上近づくな、人間』
声がした。低い声が厳かに告げる言葉に抗えず、少年は肩を震わせて立ち止まる。振り返っても、先ほどより強い光のお蔭で廊下まで見える先には、他に動く存在はいない。再び視線を戻すと――光が、獣の眼を蒼く射していた。
『何をして、ここに入れられたんだ』
再び獣が問いかけてくる。少年は獣の姿をまじまじと見つめながら、口を開いた。
「オレにもよく分からないんだ。夢のはずなんだけど、目が覚めたら突然吸血鬼みたいな男が目の前にいて。そいつが、『犬を人に戻すことが出来たらもとの世界に戻してやる』って言ってここに。あなたがそうなのかな? 本当は人間なのか?」
ク、と獣の口もとが吊りあがったような気がした。深く裂けた口は、人間のものよりもずっと感情を読ませにくい。しかしこちらを嘲笑って見えるその顔に、少年は困惑した。
『この俺が人だと? なるほど、お前はあの愚かな人王が呼び寄せた者か。であれば、明日にでも迎えが来るだろう。俺がここで人の姿になることなどないからな……試されたのだ。それよりお前、見た目によらず随分と肝が座っている』
獣の目もとが細まる。それはまるで、相手をよく見ようとする人間の仕草にそっくりだ。そう言ったら相手の機嫌を損ねるのではと考えて、少年は何も言わずに格子を背にして再び座り込んだ。差し込んだ光の正体が月であることに気づき、ここがまったくのおかしな世界ではないことに安堵する。朝になればきっと、もう少し何かが分かる。こうやって座り込むと、獣と視線の高さが合った。
「じゃあ、オオカミ?」
ピンと立った大きな三角の耳。犬とは比較にならない、太くて長い毛に覆われた尾。体つきも見るからにしっかりとしていて、投げ出されたつま先には黒く長い爪が煌めいている。
再び獣が小さく哂った。すっかりと首はもたげられていて、黒灰のたてがみがしっかりとした首を覆っているのがよく分かる。これ程の至近距離ならば、もう少し近づけばそのたてがみに触れる事だってできそうだ。
『俺を見るとそう呼ぶ者もいる』
蒼い目はまっすぐにこちらへと向けられている。色の薄い瞳は笑うことがなければ冷酷そうに見えるのだが、今は穏やかに凪いでいた。少年はゆっくりと姿勢を変えながらも、獣から目を離せない。
「あの、オレは孝(こう)って言います。宮地、孝」
『コウ、ミヤチ……奇妙な名だな。コウが、名か?』
興味なさそうに獣は呟き、再びだらりと伸ばした前足へと頤(おとがい)を乗せる。その動きと共に、獣に巻きつけられた鎖たちが音を奏でた。目がこの暗さにも慣れてくると、獣に巻きつけられているのは鎖は鎖でも決して猛獣を縛るものではないことに孝は気づいた。
細い鎖には多くの様々なチャームがつけられている。それは精巧な細工で象られた金や銀のものばかりで、豪華なネックレスでもしているように見える。四本の足にも細工が施された足環の類がしきりにつけられている。その飾りだけでも重そうに見えるのだ、獣が疲れて寝そべったのにも納得できた。
「それ、外そうか? なんだか苦しそうだ」
だから、孝がそう言ったのもほとんど無意識のうちだった。目を伏せていた獣の両眼が再び、真っ直ぐにこちらへと向けられる。
『名前も変わっているが、自身も変わり者だな。お前の身を喰らうかもしれぬ化け物の枷など、気にしている場合か? 早々にここから出られるよう、精々祈っていろ』
ぶっきらぼうな口調でそう言い切ってしまうと、獣は再び目を閉じてしまった。孝は座り込んだまま、獣の呼吸音がだんだんと寝息へ変わっていくのに耳を澄ませる。大きな肉食獣が目の前にいるというのに、孝は安堵すら覚えていた。たとえ夢の世界であれ、外がどんな風になっているのかも未だ知らない世界。オオカミが人の言葉を操るのには驚いたが、会話ができたことで孤独感から逃れることが出来た。今もこうして、傍らに生きている存在がいるというだけで力強くすら感じる。
そう、ここは夢の世界のはずなのに、得体の知れない孤独感が漂っている。
(目が覚める前に、あのたてがみに触らせてくれるかな?)
このまま眠って、目が覚めたらきっと元の世界へ還る。頭はそう思い込んでいたせいか、孝の心の中には小さな願望が一つだけ浮かび上がった。
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