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『元の世界に帰りたいのなら、俺の言うとおりにすればいいだろう』  こちらの言うことなど、気にもしていないだろうと思っていた獣が声をかけてきた。孝は隣で寝そべったままの獣へと視線を投げる。この国の王だという男が寄越してきた短剣は孝の足下で転がっているままだ。 「それはできないって言ってる。ずっとオレにご飯丸ごと寄越して自分は弱っていくのに……あなたを見捨てて逃げたりなんか、できない」  無理やり服の袖で涙を拭ってしまうと、孝は獣に向かっていつになく強い口調で答えていた。 「随分と人が良いことだな」  しかし、孝の言葉に答えたのは獣の声ではなかった。ゆっくりと近づいてくる足音。やがてカチリという音と共に、鉄檻の扉が開く。 「だが、お前が今相手にしているのは人など信じないだろう獣だ。そういえばまだ何も話してはいなかったかな、異世界からの客人よ」  相変わらずこの国の王の顔は青白かった。初めて会った時よりも眼窩はくぼみ、満足に食べることもままならない孝よりもずっと不健康そうだ。思わず男から逃げようと獣ににじり寄った孝を守ろうとしてか、鎖で繋がれた狼も薄蒼の瞳を細めながら頭を持ち上げて牙をむき出しにした。 「ここはガーナンディアと名づけられた世界だ。異世界の者は驚くが、この世界には人と人ならざぬ者が混在している。そして我が国の名はクゥムディン。純血の人のみで創られし唯一の高潔なる誉れ高き国。その獣は、魔力を持つ穢らわしい化け物だ」  一歩、また一歩と男はゆっくりとした歩調で近づいてくる。やがて孝の前で立ち止まると、無言のまま男の腕が孝に伸びた、その時。  あの兵士達が檻の中に入ってきた時ですら、相手にもしていなかった獣が低い唸り声を上げる。この国――クゥムディンの王はそれを嘲笑いながら見やった。 「そんなに嫌がるな、アウディオン……と言いたいところだが。どうせこの子どももそのうちいなくなる」  硬い爪がカチカチと音を立てて床をかき、立ち上がろうとするのを見て男はますます嬉しそうな笑い声を立てる。孝の前から獣の前へと移動し、獣を拘束する鎖へと――獣の牙が届かないところへと指を伸ばす。 「異世界の客人。この『犬』は化け物だと、今話したが」  口を開きながら、男の手が孝の足元に落ちていた短剣を拾い上げた。それからすっと鞘から刃を解き放つと、刃こぼれがないかを確かめるように光に当てる。 「それを見せてやろう」  ぐっ、と堪えるような声が、クゥムディンの王の言葉と同時に孝の耳に届いた。目の前にある光景が、目に見えているはずなのに状況をうまく把握することが出来ない。ただ――孝の視界には、獣の少し強(こわ)そうな毛並みが赤に染まっていくのが見えた。傷ついた獣のその部分に、男の指がねじ込まれている。 「見てみろ、これを。この化け物の血は空気に触れると、深紅の玉になる。そしてその玉を人間が喰らえば――」  男の手に纏わりついていた赤い血が、瞬時に丸い玉へと変化した。それを口もとにまで運び、男はそれが果物か何かのように口にする。そして金属が擦れあう音。今までにない形相で男を睨みあげる獣の痛みが、決して声にならない痛みに呻く声が孝には聞こえた気がして、思わず獣の首をかき抱いていた。それを振り払おうとして首を打ち振るう獣を、あやそうと撫で続ける。男によって傷つけられたはずの場所は、驚いたことにもう塞がりかけていた。 「再び己の血に取り込まれるまで、その獣と同様の力を得ることができるというわけだ」  再び男の手元から短剣が零れ落ちる。それは狙い済ましたかのように孝の足元へと戻った。 「まぁ、所詮は腑抜けた犬だがな。自国の民が捕らえられたと聞いて、のこのこと騙されるような」  かき抱いた腕の中で獣がギリ、と牙を噛み締める感触がした。悔しさを、堪えている。助けに行くくらい、大切な存在だったのだろうか。ふと孝の脳裏に家族の顔が思い浮かんだ。正月や盆といった時でしか会えない、しかしいつも賑やかないとこたちの顔ぶれを思い出す。家に帰ると笑顔で出迎えてくれる母親、疲れているだろうに孝のことを気にかけてくれる父親。それから、ほとんど同じ時間を共に生きてきた妹――それらが、唐突に奪われる。この獣もまた、あの男によって無理やりこの檻に閉じ込められたのだ。 「アウディオン……?」  男が姿を消すのと時を同じくして獣の頭が重力を増した。無意識に腕で包み込んでしまったのだが、今さらながらこの近さに緊張しながらも、しっかりと閉じられてしまった獣の目もとへと己の目を向ける。それが正しい名前なのかも分からないまま獣の名を呼びかけてみても、獣が応えることはない。獣に表情はないと思い込んでいたが、彼――アウディオンと出会ったことで、様々な表情があることを孝は知った。今の彼は人間で言えば『苦しそう』だ。  先ほど、クゥムデインの王によって傷つけられた箇所は既に傷自体は塞がっていたが、恐らくそれだけでは済まないのだろう。本来であればゆっくりとした時間を費やして傷というものは癒えていくものなのだ。しばらくアウディオンの首を抱いていると、やがて薄っすらと蒼が垣間見えた。 『……あの男がやったように俺の血を飲め。当分腹も空かないはずだ』  ずっとそのまま黙っているかに思えた獣は、孝を見やることなく言葉を発した。その声にも憔悴は滲み出ている。決して、今腕の中にいる獣が不死身ではないのだと孝が気づいた瞬間だった。きっとそうやって傷を抉られる度に少しずつ少しずつ獣は傷つき病んでいくのだ。だから孝がこの場所に初めて連れてこられた時、獣は明確に拒絶した――自分を、喰らう存在を。  なのに、獣が今まで見せてきたのは優しさとしか孝には思い返せなかった。それはいっそ、残酷なまでの優しさだ。いらない、とやはり小さな声で孝が返すと獣はちらりと孝の顔を見上げてから、孝の腕に己の体重を少し預けてきた。 『お前は――コウはやはり変わり者だな』  それからアウディオンが返した言葉に孝が思わず眉根を寄せると、それを感じ取ったように小さく笑ったようだった。
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