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 様子が変わったのはまた少し日数が経ってからだった。  今までも静かな檻の中だったが、それでも微かに遠くから聞こえる音があったのにそれらが一切消えた。それから、一日二回は差し入れられていた食事が途絶えた。朝から夜になるまで何も食べていないのも辛かったが、何より喉が渇く。昨日まではなんとか使えていた水も、今朝になってとうとう一滴も出なくなった。 『コウ』  耳元で名前を呼ばれても、返事はできない。夜になり暖かな陽光が差し込まなくなったせいか寒気がして、獣に擦り寄る。嫌がられるかと思ったのに、寝そべったままの獣はされるがままになってくれた。毛並みは少し強いけれど、腹部のあたりは柔らかくて温かい。獣特有の体温の高さがちょうど良かった。 『コウ、いい加減に俺の血を飲め。それでお前が罪悪感を覚える必要もない』  耳さわりの良い、穏やかな低い声。段々と遠くなる意識に、もう久しく会っていない家族の顔が順番に――今までの、平凡だったはずの自分のありきたりな、でも楽しかった過去が蘇ってくる。 「……それだけは、イヤだ」  獣の姿をしているアウディオンが、今はただの獣には思えなかった。ペットは家族だと熱く語っていた友人を、孝はもう笑えない。今のアウディオンは、恐らくきっともう二度と会えない家族たちと同じか、それ以上に大事な存在になってたのだ。手をそっと伸ばすと、柔らかな体温を感じられる。   『――コウ!』  獣がいつになく焦燥を滲ませた声で自分の名前を呼んでいるのが不思議だった。寝転んでいる体が揺さぶられるほどの轟音すら聞こえているはずなのに、それも遠く思える。    最後に孝の視界に映ったのは、月の光が蒼く射すアウディオンの瞳から零れ落ちた、紅い雫だった。 *** 「――あれ?」  ふと目が覚めて孝は体を起こす。先ほどまであんなに重怠かった体はどこも悲鳴を上げていない。何より、辺りを見回してみればここはあの暗い檻の中ではなく、己の部屋だった。朝陽がカーテン越しに降り注ぎ、今日はまたとない快晴になりそうだ。 「……アウディオン?」  呼びかけても勿論、あの優美な獣が姿を現すはずがない。ベッドから飛び降りると、孝は寝着のままで階段を一気に駆け下りた。 「あら、もう起きたの? 随分と早起きなのね」  エプロンを外しかけていた母親が笑顔で孝を出迎える。リビングからは少し大きめな音で朝のニュースが流れている。父親がテレビを見ているのだろう。 「違う……」 「どうしたの? 悪いけどお兄ちゃん、香澄も起こしてきてちょうだい。あの子ったら本当に最近お寝坊なんだから」  今日は早く会社に行かなくちゃいけないのに、とごちる母親の背。変わらない。それは、変わらない光景だった。孝がこの世界に飛ばされる直前に見た朝の光景と、なに一つ変わらない。 「……違う!」  母親が驚いたような顔でこちらへと振り返った。どうしたの、という声が追いかけてくるのを振り払い、再び二階の己の部屋へと駆け込む。 「おにーちゃん? うるさいよ」  小さな足音がして、妹が扉をノックしながら文句を言う。すべてはいつもと変わらないものであるはずなのに。あんなにも帰りたかったはずの元の世界に戻った孝の脳裏に溢れ返るのは――最後に見た、血のように紅い涙を流すアウディオンだった。  少しの時間とはいえ共に同じ空間にいたことで僅かながらも彼の性格が孝には垣間見えた気がしていた。  彼は、気高い。たとえ鎖でつながれていてもその高潔さを失うことは決してない。そして、優しい。己に誇りがある故か、自分より弱そうな立場の孝を守ろうとすらしてくれた。そんな『彼』が見せた涙の意味――。ここにいれば、あんなにも帰りたいと願っていた穏やかな日々が続くことは、分かっているのに。 「夢なんだ、覚めろッ! 覚めろッ! ……オレを、戻せーーーーッ!」  叫びながら、孝は強く強く己の目を瞑った。
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