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05
「約束なんだろう、コウを元の世界に戻せ」
「驚いたな。まさかあの鎖も呪いも同時に解けるとは。その子どもが真実、神子だったということか? なるほど、確かに奇跡は一つ起きたわけだ」
飛び込んできた声に気づいて、孝は恐る恐る目を開く。コウ、と己の名を会話の中で口にしていたのは――紛れもなくアウディオンの声だった。しかし、あの傷ついた獣はどこにいるのだろうか。自身は誰かに横抱きにされているらしい、と気づいて一気に孝の意識が覚醒する。
「それが本物の神子なのであれば私の手で返してやる義理はない。お前とその子どもがいれば、他国の脅威など簡単に葬り去れる! ……その子どもがいたのはお前ですら知らぬ異界の端だ。他の者たちでは、子どもを送ることができたとしても途中で落として終わりだろう。残念だったな、魔の国の王」
大声で笑い声を上げたのは、クゥムディンの王だ。
「そこまで性根が腐り果てたか。貴様の城は既に我の兵と隣国諸国が取り囲んでいる。この城に残ったのは貴様だけだ、人間の王」
低いのに耳さわりの良い声。その声は、孝の頭上から発されていた。見上げた先には――見知らぬ男の顔顔があった。
「我はそんなに気が長い方ではない。早々に是と答えろ、人間」
驚くほどにすんなりと、その顔はアウディオンのイメージと重なっていた。しっかりとした体は孝を抱えていてもいささかの揺らぎもなく、甘さの一切ない精悍で整った顔つき。少し強そうな短い黒灰色の髪は『彼』のたてがみのよう。そして、孝を何度となく見ていた薄蒼の瞳はそのままだった。
「陛下!」
扉を打ち破る音と共に広間――最初に孝がこの世界で立った場所――に大きな声が響き渡った。クゥムディンの王に一瞬笑みが浮かびかけたが、現れた者たちの正体に気づいた途端にそれは消えていく。破られた扉を踏みしめてなだれこんできた者たちは、自分たちが戴する者を守るようにアウディオンの周囲へと集まってくる。それを驚きながら見ていると、自分の体を抱きしめていた腕の力が少し強くなった気がした。
「……ハッ、何の喜劇だこれは。この男を捕らえた時は尻尾を丸めて逃げていったはずの者たちが、随分とタイミング良く現れたものだ。そして、私の兵士達は……」
ふらりと人間の王の身体が揺らいだ。そのまま二、三歩と後退っていき、やがて玉座らしき大きな椅子に行き当たり、力を失ったように座り込んだ。アウディオンの周囲にいた、鎧を纏った兵士たちはそれを見るなり駆けて行き、玉座を取り囲んだ。
「答えは否だ、魔の国の王。お前がその体の血肉全てを引き換えにするというなら考えてもいいが」
首の前で交差される槍をもろともせずに仄暗い目のままで男は哂った。更に少し、強くなった腕の力に孝は己の心の内に秘めた決意を固める。あの優しい獣なら、謀られるかもしれないと分かっていても頷いてしまうのではないかと思って。たとえそれをアウディオン自身が許したとしても、決して孝自身には譲れなかった。
力を込めた己の手が、短剣を握り締めていたことに今さら気づく。力の限り身を捩ってアウディオンの腕から逃れて床に降りると、全力でクゥムディンの王へと駆け寄る。走る数歩のうちに鞘は放り投げていた。思いっきり力を込めて男めがけて振り下ろそうとした手が――体ごと、誰かに封じられる。
「オレはっ! 戻れなくてもいい! アウディオンの命と引き換えにするくらいなら、家にもう帰れなくたっていいんだ!!」
それでも。耐え切れない思いを喚かずにはいられなかった。優しい『彼』が傷つくのは、もう二度と。
「もういいんだ!!」
それは、人間の王に向かって言ったのか。
それとも、獣の王に向かって言ったのか。
言い切った瞬間に、孝を押さえていた腕が力強く少年の体を己へと向かせ、抱き締めてくる。
「……本当に、茶番だったな」
小さな独白と共に、光が氾濫した。その凶悪な光が消え去った後、城の中には、その国の人間の姿はなくなってしまったのだった。
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