家路

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家路

 腕時計を見ると、時計の針は夜の九時に近づいていた。千舞(せんまい)かなみは顔をしかめた。今日は大学の講義が終わった後に、友達と遊んでいた。買い物をして、映画を見て、食事をして、ついつい時間を忘れて盛り上がってしまった。気づけば家の門限がギリギリまで迫っていた。かなみは一本早い電車に乗っていたら、と後悔しながら、大きな歩幅で足を前に進めた。  かなみは実家から近い大学に通っていて、二年生になる。年もすでに二十歳になり、お酒も飲めるし、たばこも吸うことができる。かなみ自身どちらも(たしな)まないが、もう立派な大人だ。しかし、大人になったからといって、今までと変わらないものもあった。それが家のルールだ。そのルールはいくつかあり、中でも厳しいのが門限だった。かなみは高校生の時に一度、門限を破っている。その時は学校の文化祭でクラスの打ち上げに参加して、帰るに帰れず、軽い気持ちで破ってしまった。打ち上げが終わりいざ家に帰ると、玄関前には腕を組んで眉を吊り上げた父が立ち尽くしていた。もちろん、かなみは叱られた。父親はかなみの言葉に聞く耳を持たず、一方的にかなみを責めて、終いには当分の間外出禁止と命じた。かなみは渋々それに従った。またルールを破れば、次はお小遣いをなくすと釘を刺されたからだ。そのこともあり、かなみはそれ以降ルールをけして破ろうとは思わなかった。自分が痛い目にあうのは嫌だった。元々、真面目で学校の成績もよく、親の言うことをよく聞く子だったので、反抗する気も起きなかった。  ただ、かなみは歩きながら疑問に思った。今でも家のルールは生きているのだろうか。あの時は高校生で、今は成人を迎えた大学生だ。一度ルールを破ってから、だいぶ時間も経っているし、ルール自体もうなくなっているかもしれない。  ()いているパンプスの靴音が止む。かなみは近所の公園の入口まで来ていた。腕時計を再度確認する。歩道沿いより明かりが少ない暗い公園を見て、何か思案するようにその場をうろつく。それから意を決したように、公園の入口を通り過ぎるが、突如方向を九十度変えて、公園の中に入った。  かなみはとにかく門限までに家に着くことに決めた。公園の外側を歩いていては間に合わない。家のルールがまだ残っているかどうかは、家に着いた後で聞けばいい。軽い気持ちでルールを破ると、また鬼のような父が待っているかもしれない。  それとは別に、かなみがこの公園を通り抜けるのを躊躇(ためら)ったわけがあった。最近この公園には変な噂が流れていた。かなみは母からその話を聞いたが、内容は幽霊だの、化け物だの、具体的なところは曖昧だった。かなみはいたずらで誰かが噂を広めたのだろうと、母の話を信じなかった。けれど、真っ暗な公園の姿を目の前にすると、そういった類のものが出てきてもおかしくないと気持ちが揺れる。今日見た映画もホラー作品だったこともあり、余計に不安に駆られた。映画は色々なジャンルを見る方だが、ホラーものは怖いので避けている。見る時は誰かと一緒の時だけだった。公園の噂も、恐怖心から信じたくないという部分があったのは否定できない。  かなみは持っていたトートバッグを肩に掛け、早い足取りで公園を進んで行く。もはや軽く走っているのに近い。内心の焦りが(あら)わになっていた。公園に馴染みがあるかなみでも、夜の公園は別の空間だった。朝の静かで爽やかな様子や休日の家族がくつろぐ様子など、のどかな雰囲気は微塵(みじん)もなく、肌を撫でるような薄気味悪い空気が漂っていた。風が吹くたびに木々が揺れ、葉がざわめく音がする。それは人が笑うような、泣くような声にも聞こえ、かなみの精神を闇へと追い詰めていく。その恐怖を振り払うように、かなみは顔を上げた。上空にはいくつかの星が輝き、遠くの方には高層マンションの部屋の明かりがぼんやりと(にじ)んでいた。少しの明かりでも今のかなみには心強い。そのはずだったが、かなみの表情は強張った。前進する先の上空には赤みがかった色の月が、かなみを不敵に見詰めるように鎮座していた。  かなみは思わず声を漏らした。 「やだやだやだやだやだやだ……」  震えるか細い声は、今にも泣き出しそうだった。かなみの頭は家の門限よりも、一刻も早く公園から出ることでいっぱいになっていた。足取りもすでに駆け足に変わっていた。かなみは背後の闇に引っ張られるような感覚になりながら、必死に足を動かした。そして、ようやく公園の出口が見えてきた。公園を出れば、家のマンションは目と鼻の先。かなみは息を乱しながら、表情を緩めて安堵した。  しかし、不意にかなみの足が止まった。かなみは公園の出口付近に異変を感じた。何かが動いた。目を()らしてその方向を見据えると、赤い月の下に、大きな黒い影が(うごめ)いた。その影は人のような形をしていたが、片方の腕が異様に長く、先端は大きく膨れ上がっていた。暗闇に目が慣れていたからこそ、その物体を察知できたが、かなみは少しも嬉しくなかった。少なくともかなみの脳は、その影を人ではない何かだと理解した。噂が現実になり、友達と見たホラー映画が、実は本当の話だったのではないかと錯乱するほどに、かなみの恐怖指数は測定不能になっていた。幸い黒い影との距離は離れている。こちらにもおそらくまだ気づいていない。  かなみは今すぐにでも走り出したい気持ちを抑えて、口許に手を当てて、息を(ひそ)める。震える足を動かして、黒い影を視界に捉えながら後ずさる。かなみは最善の判断を下していた。気が動転する中でも、その行動をとることができたのはホラー映画のおかげだった。その映画も未知の生物に、人間が暗闇の中遭遇するシーンがあった。残念なことに遭遇した人物は悲鳴を上げ、走り出すが、結局未知の生物に捕まり、無残な死体へと姿を変えることになった。怖がりのかなみだから、生き残るための対策を、映画から勉強していた。それは決して取り乱さず、冷静に行動することだった。  少し、また少しと黒い影との距離が開いていく。氷の上を歩くように慎重に足を交互に動かす。大丈夫。まだ、気づいていない。視界に映る黒い影は次第に小さくなり、跳ね上がった心音もそれに合わせて落ち着いていった。そこで、かなみはふと気づいた。黒い影は確かに動いていない。その場にいる。にも関わらず不安が(ぬぐ)えない。相手の姿は暗くてはっきりしない。視線なんて感じるはずもないのに、見られているという感覚に、毛穴から汗が噴き出てくる。かなみは黒い影の中に(にぶ)く光る(まなこ)を見て息を呑んだ。そんな光は一瞬たりとも見えなかったが、かなみの恐怖は錯覚すら生んでいた。  かなみはもう耐えられなかった。黒い影に背を向けて、来た道を全力で走った。大きく息を吐きながら、震える足に鞭を打つように強引に動かして地を蹴った。走っている途中で片方のパンプスが脱げてしまうが、拾っている場合ではない。一刻も早く公園を出て、駅前の交番に駆け込もうとした。  しかし、後ろから何かが迫ってくる気配に、かなみは涙を流して呻くように声を上げた。 「ああああああああああ!」  ザッ、ザッ、と何かが()れる音がする。走っているはずなのに、次第にその音は大きくなっていった。迫る恐怖に助けを求めて視線を彷徨(さまよ)わせるが、暗い公園には生い茂る木々だけで、人の姿は見当たらなかった。  その時、かなみは背後から腕を掴まれた。恐怖で身が(すく)む。掴まれた強い力に足も止まってしまう。殺される。得体の知れない化け物の大きく膨らんだ腕のシルエットが浮かぶ。恐らく大きく膨らんだそれは、かなみを丸呑みできるような口がついてるのだろう。はたまた、岩よりも固いハンマーのような塊で、叩き殺される。どちらにしてもかなみは(むご)たらしい最期を迎えるのだと、今までに見たホラー映画から想像した。もう諦めるしかない。そう思った刹那(せつな)、家族の姿が浮かんできた。厳しく心配性な父と温和で優しい母。かなみは二人に会いたかった。その想いが生きる希望に変わり、抵抗する力を生み出した。肩に下げていたトートバッグを力一杯後方に放り投げた。中身は大学の講義で使う書類や参考書などで意外と重かった。さらに遠心力がついて、十分武器になった。化け物の位置はかなみが目を瞑っていたので正確にはわからなかったが、「うっ」という呻くような声が聞こえてきたので、うまくあてることができたようだ。トートバッグが地に落ちると同時に、掴まれていた腕が解放される。かなみこの隙に逃げようと考えたが、化け物の呻きが思っていた以上に間の抜けた声だったので、眉をしかめ、目を開けた。視界の先には腹を抱え、うずくまる男の人がいた。かなみの放ったバッグはどうやら腹部に命中したらしく、男は苦悶に満ちた表情を浮かべていた。 「か、かな、かな、かな、かな、みぃ……」  季節外れの(せみ)のように、かなみの名を呼ぶ不審な男は、かなみがよく知る男だった。かなみの恐怖心が一瞬で吹き飛び、涙すらも乾いてしまう。 「……何してるの? お父さん」  よく見ると、かなみの父はコンビニのビニール袋を手にしていた。大きく膨らんだシルエットや、背後から聞こえてきた擦れるような音はそれだった。かなみは安堵すると、化け物だと思っていたものが父だったことに少し怒りが湧いた。  かなみの父は走って追いかけてきたのと、バッグが腹に当たった痛みで未だに息も絶え絶えだった。 「お、お前、こそ、な、なんで、逃げたんだ」  父が途中で拾ったパンプスをかなみは受け取り、履く時間も惜しんで、声を張り上げた。 「化け物が出たと思ったからだよ! だってほら。この公園変な噂があったでしょ。お父さんこそなんで公園にいるのよ」 「俺は、コンビニの帰り、だ。色々、食べたくなったんだ」  そう言うと、ビニール袋を(かか)げた。中にはたくさんの菓子が入っている。かなみは怪訝な顔を浮かべた。 「こんな時間に? 夕食は?」 「食べた。まあ、たまには菓子が食べたくなるもんだ――それより、もう遅いから、帰るぞ」  息も整い、かなみの父は地面に散乱したトートバッグの中身を拾う。かなみは脱げたパンプスを履いて、落ちたトートバッグの汚れを払い、かなみの父から拾った物を入れて肩に掛ける。そそくさと先に行ってしまう父を追いかけた。 「どうしてもっと早く声かけてくれなかったの?」 「……俺も化け物が出たのかと思ったんだ」  かなみの父も、かなみと同じぐらい怖がりだった。ホラ―ものの映画や番組がテレビで放送されると、チャンネルをすぐに変えてしまう。それなのにわざわざ菓子を求めて、変な噂がする夜の公園を通って、コンビニまで足を運んだらしい。 「娘のことぐらいすぐにわかってよ」 「わかったから、追いかけたんだ。急に走り出したから、こっちが慌てたぞ。お前こそ父親を化け物扱いするとは失礼だ」 「お互い様でしょ」  並んで歩くかなみは、父親の方も自分の姿を見て怯えていたのかもしれないと思った。噂に振り回されて、互いの存在を怖がっていたというのは、ある意味息が合った親子じゃないのか、と笑ってしまった。  空に浮かんでいる不気味な赤みがかった月が、今はもう少しも怖くなかった。それよりも、かなみには気がかりなことがあった。恐る恐る口を開いた。 「……ねぇ、お父さん。もしかして怒ってたりする?」 「どうしてだ?」 「門限、多分もう過ぎてるから」 「ああ、それか」  そんなのもあったな、といった具合に、かなみの父は家のルールを忘れていた様子で、前を向いたまま言った。 「お前ももう二十歳になったわけだし、いつまでも子供じゃないからな。まあ、子供の頃からの怖がりなところは、もう少し何とかした方がいいと思うけどな」 「それは少なからずお父さんにも責任があるからね」 「その言い方だと、まるで俺が怖がり見たいじゃないか?」 「……あ、隠してるつもりなんだ。うん。わかった。そういうことにしとく」 「まあ、遅くなる時は母さんにでも連絡しなさい」 「うん」  かなみは一人の大人として認められたのが嬉しかった。けど、いつまでも子供ではいられないのだと自覚させられ、少し寂しい気持ちになった。  隣を歩く父が持つビニール袋を覗く。 「何買ったの? 私も食べたい」 「帰ったらな。食べたらちゃんと歯を磨くんだぞ」 「なにそれ」  妙な子供扱いに、かなみは吹き出して笑った。あっという間に公園を出て、かなみたちは自宅に向かった。  ちなみに、家についたかなみは母から、父がかなみを心配して家を出て行ったことを知った。やっぱり父は門限を覚えていた。こっそりリビングにいる父の様子を窺うと、怒った感じはなく、山のように買ったお菓子をテーブルに並べていた。  かなみは家の出費を抑えるために、しばらくは門限を守り続けようと、素知らぬ振りをする父を見て思った。                               終わり
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