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プロローグ
延々続くようにさえ思えるキャベツ畑は酷く眠気を誘ったが、ドアに寄りかかるとがたがた揺れて舌を噛んでしまうので、灯はどんなに眠たくても眠ることができなかった。利幸のトラックからはつまらないラジオしか流れず、暇つぶしに仕方なくスマホをいじっていたら、気分も悪くなってしまった。埃っぽい車内にうっすら漂う野焼きの臭いで灯はいよいよ吐きそうになった。背もたれに背中を預けて目をつぶる。ドアと逆の運転席の方向を向いて、なんとか寝てしまおうとしたが、やはりどうしても無理だった。灯はしばらく手動式の窓を開けて我慢していたものの、鼻腔を不快に刺激する臭いについに堪えきれずに嗚咽交じりに咳き込んでしまった。背中を丸め、服の袖で口を抑えて荒々しく息をしていると、利幸が車を止め、助手席の灯の背中をそっと擦った。優しそうな印象を与える彼の困り眉の端がますます下がっていた。心配してくれているようだった。
「灯くん、大丈夫か? ごめんな、叔父さん運転が下手で」
利幸は申し訳なさそうに頭をかいた。しゅんとした目が捨てられた子猫のそれのようで可愛らしい。まだ出会ったばかりだが人も好さそうだし、親父とは大違いだと灯は思った。
「あ、いや……。いいんです、すいません」
口を抑えたままぺこりと頭を下げる。頭を上げた時にバックミラーに映った自分の顔は疲れ切っているようだった。目もうっすら赤い。放心気味に鏡の中の自分を眺めていると利幸が明るく声をかけた。
「あと二十分くらいで着くけど、どうだ、少し休憩しないか? 叔父さんもタバコ吸いたいし」
返事をする前に灰皿代わりのコーヒーの缶を持って利幸はトラックから降り、ポケットをあさり始めた。タバコを挟んだ指が何だか色っぽい。ピンク色の安っぽいライターで火を点け、利幸はうまそうに煙を吸って、上を見上げてゆっくりと吐き出した。ゆらゆらと曇った空に吸い込まれていく煙を見てから、利幸は灯の方を向いてにっと笑いかけた。
「灯くんも大きくなったよなあ。二、三歳のときの写真しか見たことなかったけど。今は十七だっけ? 高三、か?」
「高二です。早生まれなんで」
「へえー。大人びてるなあ、最近の子は。一年ちょい前まで中坊だったっていうのに」
利幸は整った顎ヒゲを撫でながら、窓越しに灯を覗き込む。品定めされているようで、灯はきまり悪そうに俯いた。それでも利幸はにやにやしながらじろじろ見続ける。大人っぽい見た目の割にシャイで初心な灯の反応を、彼は少し面白がっているようだった。それでもこの数日間、彼は甥をからかうことはあっても本当に嫌がるようなことはしなかったので、優しい男に違いはなかった。
遠くの山の方で鳶の鳴き声がした。鳴き声というより叫び声のようだった。テレビや映画などでは数えきれないくらい聞いたことがあるのに、実際に聞くのは初めてだった。
利幸は畑の方を向いてタバコを吸っていた。どうやら彼は吸った後に空に昇っていく煙を見る癖があるようだ。灯は運転席の窓を開けた。もちろん、手動式だった。窓を開けると煙が車内に入り込んできた。顔をしかめながら灯は窓の外に身を乗り出した。
「叔父さんは何でこんな田舎にいるんですか」
利幸はタバコを咥えながら振り返った。それから溜め息を吐くように煙を吐いて、吸殻を地面に置いてあった灰皿に捨てた。このときに吐いた煙は眺めなかった。
「何でって、実家がこの辺りっつーのもあるけど……、あの会社で働くのが嫌になっちまったからかなあ」
利幸は東京都内の一流企業に勤めていた。しかし、会社内での暴力事件の濡れ衣を着せられてしまったことをきっかけに、二年前に辞職したそうだ。十年以上東京に住んでいた利幸にはかっちりとしたスーツや洒落たバーやベンツがよく似合う。くたびれたステテコも、がたがたの田舎道も、色の剥げかけた軽トラックも彼にはどう考えても不釣り合いだった。でも、とキャベツ畑を眺めながら利幸は続けた。
「帰ってきてむしろ良かった。失ったもんもたくさんあるけど、その代わり得たもんの方が多いしな。灯くんとこうやって話せるのも、あの会社を辞めたおかげかもな。……だから」
言いかけて、彼は口をつぐんだ。今度は灯が口を開いた。
「だから、元気だせよ、と」
利幸は気まずそうに苦笑いをした。
「まあ、そういうことかな。ハハハ……」
灯が助手席に座りなおすのを見計らって、利幸も車内に戻った。二人とも、何も話さなかった。その代わり、気分がいくらか良くなった灯は走り出した車から灰色一色の空を眺めた。梅雨の空は分厚い雲のせいか、酷く低いように感じた。手を伸ばせば、雲に手が届きそうだった。
「もうすぐだからな」
利幸が沈黙を破った。彼は前を向いていたので、灯は横顔しか見られなかったが、声だけでも伝わってくる彼の優しさにじわりと胸に温かいものが広がった。
「叔父さん」
「ん?」
「元気、出ましたよ」
ぶっきらぼうな言い方になってしまったが、利幸は灯の方を向いて、ぱっと笑顔になった。子供みたいだ。灯は何だか照れくさくなってぷいと前を向くと、見覚えのある建物が遠くに見えてきた。
あの家だ。
「ほら、もう着くぞ」
利幸は嬉しそうに指をさして言った。知ってますよ、という言葉は飲み込んだ。都会には絶対にないような大きくて立派な、日本家屋。小さい頃ほんの少しだけ住んでいた、唯一の帰る場所。
――あの家が、これから住む家。
灯は訳も分からず武者震いをした。
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