1 亡命

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1 亡命

「皇子殿下の護衛、ですか……?」  海軍将校であるクロスチア・ブラッドアイは、上官であるルイス・アクロイドから伝えられた指令内容にその漆黒の瞳を瞬かせた。 「ああ。アストレ帝国の第三皇子セシル殿下なんだが、この方が女王陛下の遠縁に当たられる方だとは知っているだろう?」 「ええ、それは……」  遠縁だからこそ、女王陛下を頼って今度セシル殿下がいらっしゃる――ということはクロスチアも耳に挟んでいる。理由はアストレ帝国で勃発した帝位継承争いが原因だという。セシルの母が何者かに暗殺され、セシル自身も命の危険があるため、政情が安定するまでの一時的な亡命とは聞いていた。  しかしそれはクロスチアにとって無関係なことだと思っていた。 「なぜ私なんですか? 王族方の護衛ならば近衛の管轄でしょう?」  クロスチアはやや戸惑いながらルイスに尋ねた。なぜならクロスチアの所属は海軍。近衛の管轄にクロスチアが引っ張り出されることは通常あり得ない。時折の女王陛下の気まぐれを除けば。  だがそれも主が女王陛下であり、クロスチアが女性であるが故の特例措置でもあった。つまり女性が傍にいた方がいいだろうという判断がなされた時である。  当のルイスも女王陛下直々のサインのされた指令書を眺めながら、眉を寄せていた。 「一応海軍の人手を取られると痛いとは言ったんだが、事態が事態なだけに実戦経験のある者を寄越せと言われてね」  一応ルイスもささやかな抵抗は試みた。なぜなら今は航海のオンシーズン。商船や客船の護衛もあり、そのうえ新兵の教育もある。海軍としては人を割きたくなかったのだが、いかんせん近衛兵は実戦経験が少ない。そんなぼんくら近衛兵では、もし万一暗殺者が乗り込んできた場合に対応できないので、陸海軍から実戦経験のある者を配置することになったのだという。 「まぁ交代制ということだし、基本的な警備態勢は近衛の方で整えるということだから」  何か困ったことがあれば言ってくれとルイスはクロスチアに指令書を手渡した。 「わかりました」  命令は命令なので、何か疑問に思うところがあっても、結局は指令に従って警備態勢を整えて皇子殿下を迎え入れることになる。これから忙しくなるだろうとクロスチアは予想した。 ◇◇◇  ――そんなことがあってから、およそ一月後。当の皇子殿下がいよいよ来訪する日がやってきた。  大げさな謁見などはない。式典などを行ってもし暗殺やテロなどが起きようものなら本末転倒だからだ。ゆえに非公式に――特例として玉座の間ではなく女王陛下の私室で――女王陛下への挨拶をすませたのち、宮廷でも警備の厳しいそのプライベートスペースに用意されたセシルの部屋で、クロスチアはセシルと向き合っていた。  正確に言えばクロスチアだけではない。今回の警備で佐官以上の地位にある兵士たちが挨拶のためにずらりと居並んでいるのだ。 (あれがセシル殿下……)  事前情報で顔や年は知っていたが、実際に見るのとではまた違う。黒髪に緑の瞳のセシルは、まるで陶器人形のようにおとなしく椅子に腰かけている。緊張しているのか表情は硬く無表情に近いが、不安そうには見えない。従者や近衛兵隊長たちとのやり取りを見ていても、七歳とは思えないほどのしっかりした大人びた態度だ。  近衛兵隊長が「こちらが殿下の警備に当たる者たちです」とクロスチアたちを示し、セシルがこちらをゆっくりと振り向いた。将官であるクロスチアは、実質警備に当たる中では地位が最も高い方に当たる。ゆえに最前列に立っていたのだが、セシルはクロスチアの姿に目を止めたとたん、はっと息をのんだように見えた。しかし視線はすぐに近衛兵隊長たちの方に向く。 (何かあったのかしら?)  非公式とはいえ他国の王族に会うため、クロスチアたちは軍の礼装を纏っている。身だしなみにはいつも以上に気をつけたのだけれど、おかしなことでもあったのだろうか。鏡がないので確認することはできないが、クロスチアは少し不安になった。  セシルは最後に椅子から降りて、クロスチアたちの前に来ると、なんと皇族であるにも関わらずぺこりと頭を下げた。 「ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」  それで慌てたのは、当然近衛兵隊長やクロスチアたちである。隊長が「殿下、そのような……!」と何やらいさめている。  それには度肝を抜かれたとはいえ、謁見自体はそれで終わった。  そのあとは交代制で持ち場も決まっており、クロスチアたちはいったん部屋を退出した。動きにくい礼装を着替えようと自身の執務室に戻ろうとしたそのときだった。 「あの、お待ちください!」  後ろからぱたぱたと足音が聞こえてきたので、クロスチアが振り向けば、なんと驚くべきことにセシルが追いかけてきているではないか。さすがのクロスチアもぎょっとした。後ろから慌てたように侍女や従者たちが追いかけてきているのも見えた。  立ち止まったクロスチアに追いついたセシルは「あの、あなたのお名前を教えていただけませんか?」と弾む息で尋ねてきた。別段隠すようなことでもなかったので、クロスチアは膝をつくと、セシルと目線を合わせて非礼にならない程度に微笑みを浮かべた。 「お初にお目にかかります。クロスチア・ブラッドアイと申します」 「ブラッドアイ……」  するとセシルの瞳にわずかに揺らぎが見えた。そろりとセシルの腕が動きかけた――と思ったら、追いついた侍女が「殿下、危のうございます。どうかお部屋へ」とセシルを連れていってしまった。セシルは何か言いたげに侍女を見たが、結局口をつぐんで部屋へと戻っていった。それを見たクロスチアはセシルを少し不憫に思った。 (何か聞きたいことがあったんじゃないかしら……)  クロスチアも幼い頃に母を亡くしているので、つい他人事には思えなかった。しかもセシルは母親が暗殺された直後、その葬儀に出ることさえも許されなかったという。そのうえ見ず知らずの人間に囲まれて知らない土地へ来たとなれば、本当ならば不安で仕方がないはずなのに。  とはいえ、それはそれ。クロスチアも仕事があったので、セシルの後ろ姿を見送ってから、自分も執務室へと踵を返した。
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