2 早朝の訪問者

1/1
20人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

2 早朝の訪問者

(……ん、なんか重い……)  瞼の裏が白んでくる。だがまだ起きたくはない――そんな朝の微睡みの中、クロスチアはやけに体が重いことに気づいた。うっすらと目を開ければ、そこはいつも通り宮廷に用意された自室。昨日の謁見を終え、業務を終え、そしていつも通り自室に戻ってきて眠りについた。  カーテンの隙間からこぼれる朝日が眩しいが、時計を見やればまだ起床時間までは時間がある――そう思ってもう一度目を閉じて寝返りを打とうとしたができなかった。なぜなら。 「……セシル殿下!?」  クロスチアの腹部に抱きつくように寝ていたのは、昨日ここへ到着し謁見を終えたばかりのセシルだった。ぎょっとして飛び起きようとしても、セシルが健やかな寝息を立てて抱きついているのでかなわない。道理で体が重いはず――というより、どうやってクロスチアの部屋を突き止めてそして入ってきたのか。  クロスチアの声にセシルが身動ぎをした。瞼がゆっくり押し上げられていき、ぼんやりと視線の定まっていない緑色の瞳が露になる。そして――。 「……おはようございます、ブラッドアイ少将」  クロスチアに抱きついたまま、上目遣いでそう挨拶してきたのである。昨日とは打って変わった、年相応のにっこりとした天真爛漫な笑顔を添えて。それにかえってクロスチアの方がしどろもどろになる。 「お、おはようございます、殿下……。その、どうやって、ここに……」 「侍女に聞きました。鍵はかかっていませんでしたし。ねぇ、少将」  あっけらかんと答える少年に、混乱を極めているクロスチアは「な、なんでしょうか……」と答えるのが精一杯だった。 「朝食、一緒に食べてください。いいでしょう?」 「……それは構わないのですが、とりあえず殿下、離れていただけると大変助かります」  まずはおそらくセシルがいなくなって大騒ぎをしているであろう侍女たちに連絡をせねばなるまいと、クロスチアは頭を抑えた。セシルはひとこと「嫌です、少将とまだ一緒にいたいので」と言ってクロスチアの腹部に甘えるように顔を埋める。それでもなんとか説き伏せて離れてもらうことに成功した。  クロアから離れてぷぅと頬を膨らませているセシルに「支度をするので待っていてください」と寝台に座っていてもらって、自身は衝立の後ろに回り込んだ。ネグリジェから軍服へ着替えをすませ、髪を結い上げる。水差しから洗面器に水を注ぎ、顔を洗えばいくぶんか混乱もおさまってきた。 (なんだってセシル殿下が私の部屋で寝てるの……)  方法はともかく、理由がさっぱりわからない。化粧もささっとすませて衝立の裏から出れば、セシルはぱあっと顔を輝かせてクロスチアに抱き着いてきた。それを受け止めて、クロスチアは「殿下、とりあえず殿下のお部屋に戻りましょう。私が送りますから」と優しく促す。  手を繋ぎながら、セシルの部屋に戻る道中、クロスチアは一番の疑問を聞いてみた。 「殿下、その、なぜ私の部屋で寝ていたんですか? お部屋がお気に召しませんでしたか?」 「だって、皆僕を閉じ込めるので。昨日だって少将ともっとお話したかったのに、危ないからと。宮廷で危ないことがあったら、警備の意味もないのに、変なことを言いますよね。だから黙って抜け出しました」  セシルは唇を尖らせながら呟いた。クロスチアの私室に割り当てられている客間は、王族のプライベートスペースにほど近い区画に用意されているため周辺の警備も厳しい。だからセシルがひとりで出歩いても問題ないようにも思えるが、亡命してきた状況が状況なだけにお付きの者たちが神経質になるのも無理はない。  案の定、セシルの私室辺りでは皆、てんやわんやの騒ぎだった。クロスチアに連れられたセシルを見るなり、安堵で泣き出す侍女や従者までいる始末。しかしセシルはそれを冷めた目で見ていた。本人からすれば、宮廷の中をちょっと散歩していただけなのに、何を大騒ぎしているのかという感覚なのだろう。だが事はそんな簡単な話ではない。 (まだ幼いからわからなくても仕方ないけれど……)  これはなかなかの問題児だと、クロスチアは天を仰いだ。  そしてその後、セシルたっての望みで朝食をともにしてから、警備体制の見直しが早急に図られた。侵入者への警備は厳しく行っていたが、まさか当の皇子が逃げ出すとは考えていなかったためである。 「――というわけで、ブラッドアイ少将。大変申し訳ないのだが、セシル殿下の護衛を一任したい」  近衛兵隊長がたった一晩でげっそりとやつれた顔でクロスチアに告げる。当然、クロスチアはそれをきっぱりと切った。 「嫌です。海軍だって今はやることが山積しているんです」 「でも貴殿を気に入って、食事ももちろん寝るときも貴殿と一緒でないと嫌と言い張っているんだよ。逆に言えば、貴殿がいればおとなしくすると、セシル殿下は仰っていてね……」  話だけ聞けば、とんだ我が儘皇子である。しかしよくよく聞けば、帝位継承順位が第三位とそもそも低く、故に帝位継承争いに巻き込まれるはずではなかったのだという。  しかし皇子の母親の実家が欲目を出したせいで、事態は変わった。  セシルの母君の実家は、先の皇后陛下から生まれた異母兄ふたりではなく、セシルに帝位を継がせ、政権を恣にしたいと望んだ。結果、異母兄たちの一派がそれに当然反対し、ならば幼いうちにセシルを亡き者にしてしまえと、まずはセシルの母君であった現在の皇后を暗殺したのだという。その魔手が伸びる前にセシルは国外へ逃亡できたが、しかしそれ故に母君の葬儀には出席できなかった。  そこへセシルの母君とよく似た容姿のクロスチアと出会ってしまった。なんでもセシルの母君もクロスチアと同じ、黒髪に黒い瞳だったらしい。年も比較的クロスチアと近いこともあり、だからこそ母君を恋しいと思う気持ちが止められなくなってしまった――それがセシルの不可解な行動の理由であった。  それを聞けば、いくらクロスチアとて幼い王子を無下には扱えなかった。クロスチアもセシルと同じ年の頃に母親を亡くしている。そのときどれほど辛く悲しかったことか。それでもクロスチアにはまだ父がいてくれた。一緒に悲しみ、涙を流し、それでもクロスチアとともに前に歩んでくれた父が。 「……わかりました。ですが、四六時中というわけにはいきません。朝夕の食事はともにできますが、さすがに共寝はできかねます。遠征からは外していただくよう、アクロイド中将にお願い申し上げますが、それでも通常業務がありますので、日中は交代制で」  クロスチアの最大限の譲歩に、近衛兵隊長はうなずいた。一晩中極秘裏に――聞けば事を大きくしないために、情報部の調査官たちを動かしてまで捜索していたのだという。そんな事態が続けば、軍部自体が機能停止に陥ってしまうのは明白だった。  とんだことになったと、クロスチアはため息をこぼした。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!