3 我が儘

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3 我が儘

 さてその結果どうなったかといえば――。 「……ブラッドアイ。さすがに顔色が悪くないか?」  ルイスは眉を跳ね上げた。彼の目の前には業務報告に来たクロスチアが立っている。だがその顔色はひどく悪い。化粧でごまかしてはいるが、うっすらと隈が見えるし、少しやつれたようにも見える。「報告はいいからそこの椅子に座りなさい」とルイスが促すほどに。珍しいことに「……申し訳ありません」とクロスチアはその申し出を受け入れた。  応接用のソファーに彼女が座ったところで、ルイスも向かいに移動して腰かけた。クロスチアが疲れ切っているのは明白だった。  遠征や輸送任務こそ外したが、その代わり作戦立案や新兵の教育、部隊の編制などの通常業務をこなすことになった。加えてその合間にセシルの警備もして、自身の訓練もいつも通りこなしているので、疲労もたまるのも無理はない。きちんと休んでいればこんなことにはならないのだろうが――。 「セシル殿下にも困ったものだな……」  ルイスがため息をついた。 「まだ幼いというのもありますから、仕方ないといえば仕方ないんですけど……」  クロスチアはこの一月を思い返した。 ◇◇◇ 「少将! 少将、おはようございます!」  最近のクロスチアの一日はそんな明るく朗らかな声で始まる。一度朝に起こしに来られてから、セシルは毎朝クロスチアを起床時間に起こしに来るようになったのだ。もちろん、きちんと護衛と侍女付きで。貴族の地位にあるとはいえ、王族から見ればたかが一兵士のクロスチアに起きないなどという選択肢はない。ゆえにクロスチアはセシルが起こしにくる前に起きて、身支度を整えなければならなくなった。 「おはようございます、殿下」  扉を開ければ、にっこりと笑うセシルがそこにいる。彼はクロスチアの手を引っ張って、「一緒に朝ご飯にしましょう」と自室まで小さいなりにエスコートしてくれるのだった。  そうしてセシルの自室で共に朝食をとる。王族との食事に慣れていないわけではないが、こうも毎日では緊張で食べた気がしないとは、クロスチアの心の声である。セシルが無邪気に話しかけてきて笑っているのを見ると、当然そんなことは言えるはずもない。  昼間は昼間で、セシルはクロスチアについてまわった。クロスチアが執務室にいれば勝手に出入りするし、部下の訓練に当たっているときは訓練場の見学スペースにちょこんと座っている。一応警備担当や従者がついているし、何より軍部ほどある意味で警備が万全なところはない――何しろ全員が全員武術に長けている――ということで、セシルの出入りは黙認されていた。  セシル自身も「少将!」と隙あらばクロスチアに寄り添うが、それ以外は大変おとなしかった。つまり仕事の邪魔にはならなかった――クロスチア以外の人間にとっては。  クロスチアの仕事はあまり捗っていない。作戦書や報告書を書いていれば「それはなんですか?」と尋ねてくるし、机の下に入り込んで膝に甘えるようにすがってくることもある。ちょっと休憩しようものなら、すかさずセシルが「遊びましょう!」と言ってくるため、休憩はほとんど取っていない。  一度情報部のウィステリアがクロスチアに情報を持ってきたときに、席を外すよう頼んだらばひどくぶーたれていたことも記憶に新しい。ウィステリアが帰ったあとには、いつも以上にべったりとひっついてきた。さすがに来客が来るたびこれではと思い、クロスチアはセシルに執務室で勉強をさせるということを思いついた。そんなわけでクロスチアの業務中は、セシルも勉強をすることになった。最近執務室には種々の教育本が増えている。  そして当然のように昼食も夕食も共に取り、夜は夜で侍女の言うことを聞かずクロスチアが寝かしつけないと寝ない。セシルをベッドに入れて、子守唄を歌ったり寝物語を語ったりと、本来侍女がやるべき仕事をクロスチアがやらなければならなかった。  そうしてセシルが寝付いたら、執務室に戻り昼間セシルがいては処理できなかった仕事に追われ朝は以下略。ともかく睡眠時間が格段に減ったのである。そんな生活が続けば、いくら体を鍛えていても支障が出始めるのも無理はなかった。近衛兵隊長他上層部の連中もそれでセシルが宮廷から逃げないのならと黙認する始末だった。 「……明日には休みを取って、一度宮廷を出ろと言いたいところだが、そうすると殿下も君を追いかけかねないな……」  ルイスはどうしたものか考えた。このままではクロスチアが倒れてしまう。王族相手に強く出られないのはルイスたちも同じである。かといって彼女の疲弊を見て見ぬふりはできない。  だが休みを取らせてブラッドアイ公爵家の本邸や別邸に戻ったところで、宮廷にほど近い位置にあるため、セシルが毎日押し掛けることは想像がついた。田舎のブラッドアイ公爵領に帰るという手もなくはないが、海軍にとってクロスチアがすぐに呼び出せない場所にいるのも痛手である。 「……ああ、そうだ。ちょうどいい」  クロスチアは首を傾げた。ルイスは執務机から作戦書をとってくると、中身を確認するようにぺらぺらとめくってからクロスチアに手渡した。クロスチアもそれに目を通す。そして沈黙した。 「中将、あの、これって……」 「うん。商船の護衛兼海賊討伐の作戦書だね――『海の悪魔』の出没する海域の」  ルイスはにっこりと笑った。  その略奪の手腕の鮮やかさゆえに、各国に恐れられている『海の悪魔』とクロスチアが出会ったのは数年前のこと。そこの長、ジャックはなぜかクロスチアを好敵手としていたく気に入り、毎年毎年クロスチアの率いる艦隊に勝負を挑んでいるという話はルイスも当然知っている。そしてその機会を利用して、毎年毎年クロスチアの方も『海の悪魔』を捕縛しようとしていることも。それがなせる海戦術を有しているのもまた、彼女しかいなかった。だからこそルイスも毎年彼女をこの任務に当てていたのだ。  とはいえ、今年はこんな事情があったから、他の者に任せようと考えていたのだが。 「休むよりそちらの方がいいだろう。殿下は絶対に追ってこられないから、諦めるしかない。コンラッド副官もつけるから基本的な指揮はそちらに任せて、君は極力休んでいなさい。事情は私から話しておこう」  確かにセシルは絶対に追ってこられない。コンラッド副官がいれば、クロスチアの負担もかなり減る。何より海に出ることはいい気晴らしになるだろう。 「承知しました。……ありがとうございます」 「近衛兵隊長との相談には私が行く。だから君はその準備を進めておくように」  ルイスの配慮にクロスチアは肩の力を抜いた。別にセシルが嫌いなわけではない。  ただ、あまりに疲れているのは事実だった。
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