side川中

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side川中

それは、ある日突然始まってしまった。 「おい、中嶋!お前この計算間違ってるぞ!」 隣の席の中嶋さんが、課長に呼びつけられるのを見て、俺は嫌な感じがした。 課長の表情や口調が、今までのそれと明らかに違っている。 (あの書類、確か朝一に課長に確認の提出してたよな。しかもあの量の資料を、何でこんな終業間際になって…) 自分の仕事をしながら、気になってチラチラとそちらを見ながら考えていると、課長の罵声が飛ぶ。 「ちょっとは鈴原みたいに愛想よくしたらどうなんだ!」 俺は一瞬、何を言っているのか意味が分からなくて、呆然とする。 課長から心無い罵声を浴びた彼女は、俯いて震えていた。 その時、俺の視界の端に、それを見ながらほくそ笑んでいる女が映った。 鈴原桃子ーーー。 入社して半年で、課長の愛人の枠に収まっている女。 仕事もまともに出来ないのに、見た目を着飾ることは忘れず、男に媚を売ることに精を出す、俺の一番嫌いなタイプの女だ。 課長との不倫に、今や課のほとんどの人間が気付いている。本人達はうまく隠しているつもりらしいが。 (課長のこの変化はあの女が原因か?でも、何で彼女を…) 俺は、言いようのない怒りが沸々と湧いて来た。 中嶋さんが、あの女に何かしたとは思えない。 彼女は、中嶋蘭子という女性は、人当たりが良くて気使い屋で、他人に迷惑をかけることを嫌う人だ。真面目で頑張り屋で、控えめに笑う笑顔がとても可愛い。そんな彼女を、俺はいつからか好きになっていた。 (中嶋さんと鈴原桃子の間に何があった?) 大量の資料を抱えて、俯きがちに隣の席に戻った彼女が、一つ深呼吸をするのが聞こえてきて、それが微かに震えているのに気付いた。 (泣きそうなのを、必死に堪えてるのか…) きっと、周りに心配かけまいと、泣くのを我慢しているのだろう。 心無い罵声を浴びたというのに。 そんな彼女を、俺は今すぐに抱きしめたくなって、それが出来ない自分が、どうしようもなくもどかしい。 (恋人なら、彼女を慰めて、思う存分甘やかして、辛いことなんて忘れさせてやるのに) そんなことを思いながら休憩室に向かうと、そこには山本さんが居た。 皆に影で女帝と恐れられている彼女は、中嶋さんの新人時代の指導者だ。 「山本さん、さっきの、どう思います?」 「蘭子の事?どうもこうもないわよ!何あれ!愛想がどうのとか、自分の愛人と比べんじゃないわよ!蘭子の方が数倍愛想良くて仕事も出来て可愛いわ!!」 「しーっ!ちょ、声抑えてくださいよ。」 「ごめん。あまりにも腹が立ってたからつい。」 「気持ちは分かりますよ。俺も、めちゃくちゃ腹が立ってるんで。」 この人は、中嶋さんのことをものすごく気に入っている。 それは彼女が、人の指摘や注意を素直に受け入れることが出来ることや、少しでも早く仕事を覚えて力になれるようにと、頑張り屋な所を見ているからだろう。 「川中が腹を立てるのは…蘭子の事が好きだから?」 「何で…」 「既婚者を舐めないで頂戴。ーーなーんてね。この前の飲み会帰りに見ちゃったのよ。あなたが、鈴原の誘いを断った後に、蘭子の事誘ってるのを。」 見られてたのか。というか、この分だときっと、会話の内容も聞かれてるんだろう。 山本さんの顔がニヤついてるのが、その証拠だ。 「川中が、飲んだ後に甘いものが食べたくなるなんて知らなかったわ~。カフェのケーキは美味しかったかしら?」 (やっぱり全部聞かれてるのか…。くそっ、周りには誰も居なかったと思ったのに。) 「鈴原の誘いを断るなんて思わなかったわ。男は皆、ああいうタイプの女に誘われたら、ホイホイ着いていくんだと思ってた。」 「冗談でしょ。ああいうの、俺が一番嫌いなタイプですよ。中身がなくて外見だけとか、どこを好きになれるんですか。」 「へ~。ちょっと見直したわ。」 「そりゃどーも。」 「あの時の鈴原の顔、傑作だったわよ~。川中が蘭子と一緒に消えていくのを呆然として見てたんだから。課長と不倫してるくせに、独身の男にも手を出そうとした罰が当たったのね。」 山本さんのその言葉に、俺はハッとした。 「あの女も、俺と中嶋さんが一緒に行くのを見てたんですか…?」 「ええ。見てたわよ?悔しそうに。」 (まさか…!) 「あの女…本当に性悪だな。」 今回の件は、その飲み会での出来事が原因である可能性が高い。 「ちょっと、どうしたの?」 「山本さん。中嶋さんのために、協力してもらえますか。」 「蘭子のためなら協力はするけど…一体何なのよ。」 俺は、先程見た鈴原桃子の事、その飲み会の事を照らし合わせて、ある仮説を山本さんに伝えた。 「なるほどね。プライドの高いあの女なら、可能性はあるわね。見た目が控えめな蘭子の事を、見下しててもおかしくはないし。そんな女が、自分を断った男に声をかけられて二人で消えていったとしたら…しかも、その男が社内でも1・2を争うモテ男だとしたら、面白くないでしょうね。」 俺がモテ男かどうかは置いておいて、恐らくその仮説は間違っていないだろう。 俺と山本さんは、課長と鈴原桃子の不倫の証拠を集めることにした。 といっても、探偵でもない素人が出来ることは限られているが。 ただ一つだけ、偶然にも、二人が利用しているホテルを突き止めていた。 (偶々とはいえ、社内の人間に見つかるようなホテルを不倫で使うとか、馬鹿だろ。) 俺はホテルに二人が入るところを写真に撮ることにした。山本さんには、いざという時のため、課長達の出退勤記録のコピーと、課長が今後も彼女に嫌がらせを続けた場合、パワハラの証拠を残しておくようにお願いした。 その日、どうやら二人は密会するつもりはないらしく、課長が自宅方向の電車に乗ったのを確認した俺は、一度家へと帰って、車で会社へと戻った。 あの仕事量なら、俺が手伝ったとしてもかなり時間がかかるだろう。 夜遅くに、彼女を駅から一人で帰すのは嫌だった。 それから毎日、彼女は残業を余儀なくされていた。 毎日毎日、よくも飽きずに嫌がらせが出来るもんだと逆に関心する。 そんなに課長はあの女が可愛いのだろうか。 同じ男として、課長の女を見る目のなさを哀れに思った。 二人の証拠を掴むため、どうしても彼女を手伝うまでに、1時間はかかってしまう。 ただ、これが逆に功を奏しているようで、二人には、俺が彼女を手伝っていることを悟られていないようだった。 誰にも邪魔されることのない二人だけの空間。 帰りの車の中で、ウトウトとする彼女の可愛い寝顔。 俺は、この時間がずっと続けばいいと思ってしまっていた。 そして、俺なしではいられなくなればいいと。 彼女が限界まで傷ついているのも気付かずに。 そんな俺に天罰が下ったのか、ある日、突然彼女に拒絶された。 「…川中さん、もういいんです。私のことなんて気にせずに、彼女の所に行ってあげてください。」 一瞬、何を言われているのか、本気で理解出来なかった。 彼女?なんだそれ。そんなものいない。 俺が彼女にしたいのは、目の前の女性ただ一人だ。 何を勘違いしているのか聞き出そうにも、思ったより強い手に背中を押され、ドアの外に出されて、鍵を閉められた。 「中嶋さん、ここ開けて!」 「私、もう限界なんです…川中さんが居たから頑張れたけど…でも、もうそれも出来ない。彼女と、鈴原さんと、幸せになってくださいね。」 彼女が泣きながら告げた言葉に、俺は頭を殴られたぐらいの衝撃を受けた。 鈴原桃子。 あの女のついた最低最悪な嘘に、俺は手が震える程の怒りを覚えた。 その怒りは、あんな女の話を簡単に信じた彼女にも向けられていた。 (好きでもない女に、ここまでするわけないだろ…何で気付かないんだよ!!) 「っふざけんな!ここ開けろ!」 怒り任せに出た言葉は、今までにない程荒い物だった。 それでも彼女は、俺を無視して、自分の席に戻り、俺の言葉なんて聞きたくないと言わんばかりに耳を塞いだ。 彼女に誤解され、拒絶され、泣いている彼女をただ見つめる事しかできない状況に歯噛みする。 もう限界だと言った彼女は、きっとすぐにでもこの会社を辞め、俺の前から姿を消すつもりだろう。 「誰が、逃がすかよ…!」 俺の気持ちがちっとも伝わっていないのなら、分からせるだけだ。 どんな手段を使っても、彼女を苦しめたあの二人を破滅させる。 そして、俺は絶対に、彼女を掴まえる。 その場を離れた俺は、まず山本さんに連絡を取った。 課長の自宅を教えてもらい、すぐに向かう。 今日は、あの女と過ごしているのが分かっているから、都合がいい。 突然訪ねてきた俺を、課長の奥さんは文句も言わずに迎え入れてくれた。 俺の話を聞き、奥さんは驚くでもなく、怒るでもなく、ただ静かに頷いた。 「変だとは思ってたんです。帰りがあまりにも遅い時が多くて。浮気してるのかもしれないとは思っていました。まさか、パワハラまでしていたとは…。」 「すみません。突然来て、こんな辛い話を…」 「いいえ。逆にすっきりしました。私にも妻としてのプライドがありますから、夫とその女性には、きちんとけじめをつけさせましょう。自分たちが何をしたのか、きちんと分からせてやらないと。」 「ありがとうございます。」 「…その女性の事を、とても大切に思っていらっしゃるんですね。」 奥さんの言葉に、俺は驚く。 「分かりますよ。だって普通、何とも思っていない女性に、ここまでしたりはしないでしょう?」 「…すみません。個人的な感情でこんなこと…」 「いいえ、謝ることではないですよ。ただ少し、羨ましいなって。…私も、あの人からそんな風に思われていた時期が、確かにあったはずなのに。どうしてこうなってしまったんでしょうね。」 それまで、決して表情が崩れることのなかった奥さんの目に、涙が溜まるのが分かった。 何と声をかけていいのか分からず、俺はただそこに座っている事しか出来なかった。 課長は、何故この奥さんを大切にしないんだろうか。何であんな女に現を抜かしてしまったんだろうか。 俺には課長の気持ちが、到底理解出来なかった。 明日の朝、奥さんと会社で落ち合うことにした俺は、自宅へと帰り、決戦に向けて準備を整える。 彼女は、今頃まだ会社だろうか。 もう泣き止んだだろうか。 会社に見に行こうか迷ったが、今戻っても、きっと同じ結果だろう。 奥さんにはすぐに見抜かれた程、分かりやすい俺の気持ちが、当の彼女には全然伝わっていない事に、苦笑しかない。 だが、それも今日までだ。 明日には、嫌って言うほど伝えるつもりだ。 俺の気持ちが、本気だって事も。 *************** 翌朝、俺と山本さん、そして課長の奥さんは、フロアの入り口で課長を捕まえた。 奥さんを見て、課長が目に見えて動揺する。 「お、お前、何でここに…」 「あなたに、きちんと制裁を受けていただこうと思って来たのよ。」 「制裁…?」 「その前に、鈴原桃子さんはどちらかしら?」 その名前に、課長の顔色が悪くなる。 そこへ、鈴原桃子が、何も知らずに出社してきた。 呑気にスマホを弄りながら。 「鈴原桃子さんって、あなたね?」 「そうだけど…あなた誰?」 「課長の奥さんだよ。」 俺が親切に教えてやると、動揺したのが目に見えて分かった。 「課長の奥様が私に何のようですか?」 動揺を隠すように笑顔で言うこの女は、強かなのだろう。 悪い意味で。 「それは、あなたがよくご存じなのではなくて?」 「さあ?なんのことだか分かりませんけど。」 「そう…では、これを見てもそんな事言えるのかしら?」 奥さんは、俺が集めた証拠の写真を一枚、二人の前に突き出す。 見るからに二人の表情が変わった。 「これでも、何の用件かお分かりにはならないかしら?」 「ち、違います!一度だけ、課長とそうなったのは認めますけど、たった一度です!」 「そ、そうだ!一度だけで、何も会社にまで押しかけてくることはないだろう!」 「へえ、そう。一度だけ、ね…じゃあ、これはどういうことかしら?」 奥さんが、2枚、3枚と、証拠の写真を突き付ける。 「一度だけなのよねえ?全部服装も違うように見えるのだけれど…これはどういう事なのかしら?」 「これは…その…」 何も言い訳が出来ない二人は、ただ顔色を悪くしていく。 フロアの入り口での出来事に、自然とギャラリーが集まっていた。 その中に、部長の顔があるのを、俺は見逃さなかった。 騒ぎが大きくなればなるほど、この二人を破滅させることが出来る。 俺の計算通りだ。 パワハラについても切り出すと、二人はどんどんと取り繕えなくなってきていた。 パワハラの発端は、鈴原桃子が、中嶋さんに苛められていると課長に縋ったことらしいが、彼女が苛めていた事実はない。彼女の人間性を知っている人は絶対に信じない嘘だ。 フロア全体が、呆れと憐れみに包まれていた。 そんな時に、中嶋さんが出社してきた。 急いで山本さんが中嶋さんを連れてくると、そこからは、鈴原桃子の化けの皮が剥がれていくだけだった。 見た目しか誇れる物が無かった女が、醜い表情で喚き散らす様は、きっと彼女の見た目に惹かれていた男の目も覚ましてくれたことだろう。 課長の顔も、驚きに呆然としていた。 部長に連れられて社長室に行く彼らを見送る。 これだけの騒ぎになった上に、不倫だけじゃなくパワハラの件もある。 きっと、二人はもうこの会社にはいられないだろう。 これでとりあえず、一つの問題は解決した。 そう思って彼女の方を見ると、何故か山本さんと抱き合っていた。 (くそっ、先越された。) 二人に近づいて声をかけると、不思議そうに見る彼女。 山本さんに発破をかけられたが、そんなことされるまでもない。 逃がすつもりはない。 話の内容が理解できない表情の彼女に、俺は思わず笑みが零れた。 そこからは、なかなか俺の思う通りには進まなかった。 早退すると宣言したのに、当事者である彼女が事情を聴かれる事になり、連れだすことが出来なかった。 漸く二人になれたのは、午後になってからだ。 あらかじめ予約を入れていたホテルへと車を走らせる。 この後の事を考えて、少しばかり表情が硬くなっていたかもしれない。 逃がすつもりはない。 彼女も、俺の事を悪くは思っていないだろう。 だけど、もしも今回の件で拒絶されたら、と思うと穏やかではいられない。 俺の行動が全ての始まりである以上、その可能性は、全くのゼロではないのだ。 直前までそんなことを考えていたからか、彼女に好きだと言われて、俺は抑えが利かなくなった。 「はっ…ぁ…」 口づけの合間に落とされる彼女の吐息に、簡単に欲を煽られる。 触れれば触れる程、彼女に溺れていく気がした。 貪るように彼女を抱いた後、スヤスヤと幸せそうに眠る彼女を見つめる。 「俺はきっと、もう蘭子を手離すことは出来ないから。だから、覚悟しておいて。君もすぐに、川中さんって呼ばれるようになるから。」 ちゅっと軽く頬に口づけを落とした後、山本さんに連絡をする。 「俺です。おかげさまでちゃんと掴まえることが出来ました。それで例の件、よろしくお願いしますね。」 電話の向こうで、おめでとうと言いながら、「とんでもない執着男に掴まっちゃって、あの子大丈夫かしら…」と彼女を心配する声が聞こえてきたが、あえて聞こえないふりをして電話を切った。 明日にはきっと、社内中に俺達の交際が知れ渡っていることだろう。 そして、来月には俺の実家に連れて行って、部長への仲人のお願いと、彼女の実家にも早めに挨拶に行かないとな。 式はすぐにはあげられないから仕方がないとして、いつ籍を入れようか。 指輪も買いに行かなくちゃな。 誰にも付け入る隙なんて与えない。 絶対に彼女を逃がさないように、囲い込む。 これからの幸せな未来に思いを馳せ、彼女を抱き締めながら眠りについた。
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