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元湯へようこそ
湯気は所かまわず、その街を覆い尽くしているかのようだった。
霧のように全てが霞んでいるわけではない。しかし、黒々とした街道沿いの家並みのそこかしこから、かなりの量の湯けむりが立ち上り、おもいおもいに踊っていた。
家の裏手にある、ゆるやかな斜面のあちらこちらからも、斜め上の空に向かい激しい湯気が噴き出している。
何より驚いたのが、歩いている街道、両脇の側溝からも、くるりくるりと目に見えるような線を描いて、白い湯気が僕を歓迎してくれていたのだ。
このような情景をどこかで見た覚えがある。
そう、まだ高校生の頃だった。僕は遠くの高校に通うため、いつも朝早く家を出た。
冬の街、車もまばらな頃に立ちこぎで自転車を走らせていくと、駅近くのクリーニング屋はたいてい明かりが灯っていて、家の前の側溝からはいつも、しゅうしゅうと湯気が漏れ出ていた。ちょうどそんなことを思い出していた。
手袋ごしの指先のしびれるような冷たさも、急に蘇ってくる。
冷たさを感じたとたん、寒さがこたえてきた。
丁度、空からすっかり朱の色が醒め、濃紺の中に星がはっきりと煌めきだした頃に、僕らは元湯の前に着いた。
「ではごゆっくり」
小さな影は笠をかぶったまま深々と一礼して、元来た道を戻って行こうとする。
「ねえ」
僕はあわてて呼びとめる。「猫は? 僕は猫を探しているんだけど、それも急いで。猫はどこか、知ってるんじゃないの?」
「湯に入れば、分かりまさ」
どういうことなのか、首を傾げる僕に、
「ほれ」
彼は笠の顔を元湯の建物を越えたあたりに仰向けてみせた。
え、何? 僕は彼の目線が向いているだろう方を伸びあがって見据える。
裏手のなだらかな斜面、雑木の暗い影の合間からも湯気がふんだんに湧いている。「あれが?」
目を戻した時、いつの間にか、案内の姿が消えていた。
猫を探していたのに、風呂に入れ? ということなのだろうか?
僕はこわごわと、元湯という大きな看板のかかった玄関から中に入っていく。
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