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先客にようやく気がついた。
岩のくぼみになったところに、僕と同じような半分透けたような、目だけがぼんやり光った影が、湯に浸かっていたのだった。
急に気恥ずかしくなって、僕は中途半端な位置で止まった。
目がこちらを向いているようだった。少しして、軽く会釈をしたようだ。
女性なのだろうか? だったらこちらはかなり不躾な感じを与えたに違いない。しかしそう思ってからふと我にかえった。この姿なら、男だろうが女だろうがあまり関係ないだろう。
咳払いをして、僕は尋ねてみた。「おひとりですか」
どうも耳をふさいだまま、小声で喋っているように音がこもって聞こえる。まるで響くということがない。
だが、不思議なことに
「はい」
相手の声も同じように、耳の中で聞こえた。「おたくさんも、湯治で?」
「いや……まあ、はい、そうです」
煮え切らない答え方になってしまったが、相手は特に気にするふうもなく
「ほう」
ぱしゃん、と軽く湯を叩いた。
声だけ聞くと、性別は判然としなかった。
「この湯は、ありとあらゆる処に効きますからねえ」
僕は「はあ」とあいまいにうなずいた。
そう言えば、『元湯』とは聞いたが、ここはどこの温泉地なのだろう。
それに、どうしてここに来てしまったのだろう?
「実は」この人には、ちゃんと聞いてもらったほうがいいような気がした。
ためらいながら、僕は言った。
「ここは初めてなんです。そんで、なぜここに来たのか、分からなくて」
「ほう」
同じように、目の前の人が答え、また、ぱしゃんと湯をはたいた。
「探している、と言ったら、案内してくれた人がいて」
「探している、ほう」薄緑の目がまっすぐとこちらを向いた。
「お連れさんですか?」
「はあ」なぜか、心の中に何か声がして、僕は「猫です」と続けるのを止めた。
代わりに「目が悪いんです、ソイツ」そう続けた。
「目がお悪いんでしたら、」目が湯気を透かしてずっと奥の方を見やった。
「ここよりかずっと元に入っているでしょうよ。ここはまだ一ノ湧きですからね」
「イチノワキ?」
「そうですよ」さも当然と言ったふうに、その人は続けた。
「一ノ湧きは、足腰をくじいた時に、
二ノ湧きは、どこでも出来物が噴いた時に、
三ノ湧きは腹が悪い時に、
四ノ湧きは、胸や気を病んだ時に、
元ノ湧きは、目病みに特に、効くと言われておりますから」
私も、足を捻ったせいで腰を痛めましてね、だからここにおるのです、とその人はまたぱしゃりと湯を打った。
それを合図に、僕は軽く頭を下げて、更に奥に進んでいった。
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