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「まさか、それはないよ。彼がきみをここに連れてきたってことは、とっくに正式な婚姻が受理されているってことだ。式はまだだろうけど、きみはもう、レオナルトの妻だよ」
おいで、と手招きされて、エファはふらふらとジルヴェスターに近づいた。
綺麗な指の長い手が、エファの肩に垂らした長い髪をすくう。
「黒髪なんだね。前の天使は、赤銅色だったのに」
「前の天使……?」
「こっちの話だよ。それにしても、レオナルトからは本当に何も聞いてないの? ここに連れてこられた理由とか。そもそもレオナルトは、なんと言ってきみを妻に娶ったんだい?」
「け、結婚は、その。……レオナルト様が、ひと目惚れしたから結婚してほしい、と、おっしゃって」
孤児院への寄付なども関係してくるが、そこは黙っておくことにする。
ジルヴェスターは頷き、にんまりと口の端を益々つりあげた。
「レオナルトらしいね。あいつは優しいから。……それに、きっと間違いじゃない」
「あの?」
「レオナルトはきみに、恋をしたんだろうね。レオナルトだけじゃない。この僕に仕えている天使はみんな、きみに恋をする」
「……どういう意味ですか」
「今から説明するよ。こっちにおいで、椅子を詰めるから一緒に座ろう」
「い、いえ、いいですここで」
一緒の椅子になど、恐れ多くて座れない。
ぶるぶると頭を振って断れば、ジルヴェスターは不満を唱えることなく頷いた。
「じゃあ、早速話そうか。うーん、何から話そう。まず、天使についてから話そうかな」
顔をあげれば、ジルヴェスターが視線を合わせて微笑みながら話を続けた。
「天使はね、僕の侍従――聖伯爵になるために作られた子どもたちのことなんだ」
「神下のために、作られた子ども……?」
「そう。少し特殊な子どもたちでね。天使たちには、父親がいないんだ。母体だけで子を宿し、成長させ、出産する。エファは、普通の子どもはどうやって作られて生まれてくるか知ってる?」
「えっ、そ、それは、まぁ」
「そう。男女がいやんうふんなことをした結果、子を宿すんだ」
至極真面目な顔で言われ、エファは少し引きつった顔で曖昧に頷いた。
「でも、天使たちには父親がいない」
「どうして、父親がいないのに子どもが出来るんですか?」
「それは、わからない。自然の摂理、といえばいいのかな。世界はね、五十年に一度、天使をこの世に作り出すんだ」
「……世界が作り出す」
「そう。ちなみに、天使本人に天使である自覚はない。天使だと判断できるのは、身ごもった母親と、僕だけだ。だから、僕にはきみが天使だってわかる」
エファは大きく目を見張り、食い入るようにジルヴェスターを見上げた。
(あたしが、神下のために生まれてきた「天使」……?)
たしかに、エファには父親がいない。父親どころか、母親のいない孤児だ。けれど、それは一緒に育ったマリアだって一緒のこと。
なのに、ジルヴェスターの言い方ではまるで、エファは「選ばれた」ようだ。「天使」という特別な存在で、ただの孤児ではないと、彼は言う。
ジルヴェスターは椅子から立ち上がり、しゃがみこんだままのエファの傍で膝を折った。手を伸ばし、エファの手に自分の手を重ね合わせる。
ふわり、と。
ジルヴェスターが傍にきた瞬間、涼やかな清浄なる空気が鼻腔をくすぐった。
(空気に、匂いがある)
少し甘く、同時に身も心も安らぐような、そしてどこか懐かしい気持ちを思い出させてくれる香りだ。
瞬間的に、悟る。
これは、水の匂いだ。
これまで水の匂いなど感じたこともなければ、水に匂いがあることさえ考えたこともなかったというのに、エファははっきりとこの匂いが水の香りであるとわかった。
「僕はね、きみを待ってたんだ」
「あ、あたしを……?」
「そう。探してたんだ。これからはずっと、僕の傍にいてくれるね」
「あの」
なんと答えていいものか、つかの間の戸惑いが口からこぼれ出る。本当はすぐにでも頷いてしまいたかったが、神王の傍にいる、という意味を理解しかねたのだ。
ジルヴェスターは、きゅ、とエファの手に重ねた手を握り締めて、ほんのりと温かい体温を分け与える。
「いいや、傍にいてほしい。レオナルトの妻になったのだから、いつだってこの神王殿に入る権利は得たはずだ。だから――」
「……もしかして、あたしがレオナルト様の妻になったのって、神下のお傍にはべるため、ですか」
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