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第三章
聖伯爵は神王殿のすぐ近くにある、神殿と呼ばれる建物で寝起きをしているという。
聖伯爵の妻になったエファもまた、同じく神殿で寝起きするように言われ、連れてこられた部屋はとにかく広かった。
けれど、物が極端に少ない。
あるのは夫婦用に設えた大きなベッドが一つと、酒場にありそうな丸い机と椅子が二つ、それから壁際に重圧な本棚が一つ。続き部屋があるのか、右奥には木製のドアがついている。
「ここが、私の部屋です。奥は書斎で、仕事はだいたいそこでしています」
「えっ、ここがレオナルト様の部屋なの? 随分と、その、物が少ないんだね」
「なにか必要なものがあれば、取り入れてくださって結構ですよ。女官に言いつければ、用意してくれますから。……また生活に余裕が出てきましたら、城下に屋敷を建てましょう」
「本棚の本は、読んでもいい?」
「お好きなだけどうぞ」
エファは満面の笑みで部屋に入ると、真っ先に本棚に寄った。
本を読むのは好きだった。読んでるあいだは、別の世界にいける。小さいころは自分が孤児だと信じたくないときもあり、そういうときは寝物語に一人で読書をしたものだ。
院長からは目が悪くなるので夜に本を読むのはやめなさいと言われていたけれど、結局この歳になるまで、月明かりで本を読むことはやめられなかった。
「すごい、これ地図じゃない!」
エファは意気揚々と大陸図と書かれた本を取り出す。ぱらぱらとめくれば、詳細な地図と共に各地の説明が書かれている。
エファは本のなかでも、歴史書と地図が好きだ。もちろん物語になってる小説も悪くはないが、どれだけ架空の出来事を綴ろうとも、現実に起きた史実に勝るものはないと思っている。
けれど、これだけ詳細に書かれた地図ははじめてみる。孤児院にいたころは金がなくて、読める本といえば古本で出回っている使い古された物ばかりだったのだ。
「本がお好きなんですね、珍しい」
ひょっこり後ろから覗き込んできたレオナルトに、エファは我に返って首をすくめた。
「やっぱり、女が本を読むなんてよくない、かな」
「そんなことありませんよ。たしかにそのような因習はありますが、知識をつけることが悪いとは思いません。ふふ、そのうち私の仕事も手伝ってもらいましょうか」
「レオナルト様のお仕事、ですか」
「ええ。ちょうど、秘書が欲しかったんです。あ、でもあなたは私の妻なので、秘書というのはいささか問題がありますね」
「……神下に聞いたんだけど、あたしってもう、レオナルト様の正式な妻なの?」
地図を戻し、おそるおそる上目使いで訪ねれば。
おもむろに、レオナルトが両手を広げて抱きしめてきた。
「ちょっと!?」
「か、可愛い。あなた、すごく可愛いです。ああ、それにいい匂いがする。たまらないっ」
「どうしたの、なんか微妙に震えてるけどっ」
「すみません、あなたがあまりに可愛いので。では夫婦になったんですからさっそく、子どもでも作りましょう」
「ま、待って。待って!」
顔を肩口に埋めてきたレオナルトの顔を押し返せば、途端にしゅんと捨てられた子犬のような顔をされる。
「そんなにお嫌ですか?」
「嫌じゃないよ。だって、夫婦だし。妻の義務はやっぱり子どもを産むことだって思うか、ら……って、待ってってば!」
「痛い痛い痛い。首が曲がりますよ、もう」
「ちょっとだけ待って! ……あのね、レオナルト様は本当にあたしを妻にしてよかったの?」
「どういう意味ですか」
ぶつかりそうなほど近くに、訝るような色を乗せた空色の瞳がある。
エファはもごもごと少し言いにくそうにしてから、思い切って口を開いた。
「神下から、聞いたんだ。あたしを妻にしたのは、神下の命令だって。あたしを神下に会わせるには、聖伯爵の妻になるしかなかった……だから、レオナルト様は、仕方なくあたしを妻にしたんでしょう?」
もちろん、それでもエファはレオナルトの妻としてやっていくつもりだ。寄付金の件はもちろんだが、この結婚はあのジルヴェスターが望んでいること。そしてなにより、どんな事情があれ、レオナルトはエファに惚れていると言ってくれたのだ。
けれど、ジルヴェスターが言うには、レオナルトがエファに向ける恋慕は、彼が「天使」であるゆえの性だという。
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