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両手を綺麗に洗い、汗を布でぬぐったあと、二着しかない着替えのもう片方に袖を通して黒い長髪を後ろで束ねると、エファは急いで客間へ向かった。
数回しか訪れたことのない、孤児院でも比較的よい造りになっている客間の木造のドアの前に立ち、エファは自分を落ち着かせるために深呼吸をする。
手を振りあげて、軽くノックをした。
「エファです、きました」
「どうぞ、お入りなさい」
院長の声だ。すでに客間に戻っていたらしい。
エファはごくりと生唾を飲み込んで、ドアを開く。
途端に、視界の端で勢いよく立ち上がる影がある。院長かな、と思ったのは一瞬で、それが淡い金髪をした青年だと見止めると、エファの顔は真っ青になる。
(や、やっぱり昨日の――!)
青年は無駄のない動きでエファのすぐ手前まで歩みよると、ドアの前で立ち尽くすエファの手を取り、ぐっと顔を近づけてきた。
(近っ)
「エファさんですね。こんにちは、昨日ぶりですね」
「……どうも」
「改めまして、私は聖伯爵をしていますレオナルトと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「…………どうも」
顔を引きつらせながら、エファは改めて青年を見た。
レオナルトというらしき青年は男らしい顔立ちと広い肩幅をしており、街を歩けば多くの女性が振り返るだろう容貌をしている。歳は二十歳ほどだろうか。凛々しい切れ長の目は柔和に笑みを描き、薄く結ばれた唇も穏やかに口角をあげている。
すぐ近くで見つめられて、彼の瞳が綺麗な空色であることに気づいた。それも、ただの空色じゃない。蒼穹を思わせる、深い深い、吸い込まれてしまいそうなほど美しい青だ。
肩にかかるほどの淡い金髪ととてもよく似合う双眸に、エファはつかの間息を呑んだ。
昨日はそこまで気が回らなかったが、これだけ何もかもが美しい男というのも珍しいだろう。
ぽかんと物珍しげにその顔を見上げていると、ふいに、レオナルトは眉をひそめた。
「どこかお身体の調子が優れないのですか? 昨日よりも、覇気がないような」
「い、いや、そんなことないですよ。ちょっと緊張してるだけで」
「ああ、昨日いきなり抱き着いてしまったからですね。すみません、つい気がはやってしまいました。許してもらえますか?」
「……え、あれ。怒ってるんじゃ、ないんですか。その、あたしが叩いたから。今日は、それを咎めにきたんじゃ」
「まさか。あれは、殴られて当然ですよ」
ははは、とさわやかな笑みを浮かべ、レオナルトはふと真面目な表情になる。
繋いだままだったエファの手を引き、長椅子に導いた。
エファはレオナルトに指示されるがまま、そっと院長の隣に――レオナルトの向かい側に、腰を下ろす。
「実は今日、あなたにお話があってまいりました」
「お話、ってあたしにですか」
嫌な予感しかしなくて、思わず繰り返し問うてしまう。
レオナルトは微笑んだまま、頷いた。
「……わたくしは、席を外しましょう」
「ああ、いえ。院長どのにも、ぜひ聞いていただきたいのです」
立ち上がりかけた院長を手で制し、レオナルトは少し頬を緩めたが、またすぐに真面目な顔になる。
心なしか張り詰めた空気のなかで、レオナルトは両膝に肘を置き、両手を組んだ。
「エファさん」
「は、はい」
「私と結婚していただけませんか」
しん、と静寂が落ちた。
(……け?)
何を言われたのか、理解できなかった。というよりも、理解したくなかったといったほうが正しい。
(結婚? 誰と誰が? ……あたしが?)
「随分と唐突なお話ですね」
ぽかんとしたままのエファに変わって、院長が口を開いた。レオナルトは頷き、口元をかすかに緩める。
「どうしても、私はエファさんと結婚したいんです。エファさん、私と一緒に王都ベリランカへ参りましょう」
ずい、とレオナルトが身体を乗り出してきた。おもむろに手が伸びてきて、エファの膝のうえに置いたままだった手を握り締める。
エファはされるがままだったが、やっと白黒させていた目を瞬き、現状を把握した。
つまりは、求婚されているということだ。うん、たぶんそれであっている。けれど、どうして?
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