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「ご、ごめんなさいっ。あたし、そういうことはよくわからなくて」
「いいんですよ。王都から離れて暮らしていれば、爵位に疎いのも当然のことです」
レオナルトは握りしめたエファの手の甲を親指で撫でると、少し考えたすえにすっと目を細めた。
「私は、聖伯爵という位を神下より戴いております。聖「伯爵」といえば聞こえはいいですが、早くいえば従者のことです」
「……従者? え? 従者っていうのは、その」
ちら、とアルノーを見る。アルノーは胸を張り、「そうです自分が従者です」と態度で示している。
「アルノーは私の従者ですが、私もまた従者なのです。おもに、神下に直接お仕えする従者を聖伯爵と呼ぶだけであって、普通の伯爵様のように領地はいただけません。文字通り、名前だけの貴族なんです」
「じゃあ、財産とかは」
直接神下に、というくだりに驚いたが、それよりも気になった財産について、思わず口に出てしまった。孤児院への寄付金について不安に思ったのだ。
しかし、これではまるで財産目当てで結婚する悪女のようではないか。
とりなそうと慌てるエファに苦笑して、レオナルトは笑みを深めた。
「ご心配なく。聖伯爵は、神下の財産――すなわち、国庫を自由してよい権限があるんです。つまり、私の財産は国庫そのものということになります。簡単なことでは傾きませんよ」
「ええっ、国庫を自由って、なにそれ怖い!!」
財があるなんていう次元の問題ではない。この国の神であり王である神王神下と財産を共有できる恐れ多い人間がこの世にいるなんて。
神王とは、このブルディーラ神国を治める王であり神である、ジルヴェスター神王神下のことだ。他国に在する人の王を陛下と呼ぶにあたり、ジルヴェスターは神であるため、神下と敬称をつけてお呼びしている。
ジルヴェスターの名前や存在は、この国で暮らす者ならば、物心ついたころから知っているだろう。
このブルディーラ神国を建国してから八百年、一度も王位を交代することなく、不老不死の身をもって長きにわたり玉座についている神。
それがこの国の王である神、ジルヴェスターだ。
エファは呆然とレオナルトを見つめた。雲の上どころか、果てしない星々の上で輝く神王に直接仕えている人物が、ここにいる。
(神下のお顔、見たことがあるのかな)
傍でお仕えして、見ていないはずがない。
今更ながらすごい人に求婚されたと思い返し、エファは小さく震えた。
「……そんなに見つめられると、照れるんですが」
そっと頬を染めるレオナルトに、エファははっと我に返った。しまった、穴が開くほど見つめてしまっていた。
「あ、ごめんなさい。えっと、話を戻してもいい?」
「どうぞ、なんなりと聞いてください」
「聖伯爵様は、どうしてあたしを妻にしてくれるの? 一目惚れとか、あれって嘘だよね」
「……どうしてそう思われるんですか」
「だって初めてお会いしたとき、すでに陽が沈んでたじゃない」
抱き着かれて平手打ちをしたのは、陽が落ちていたことにも理由がある。明るければ相手の顔が見えたはずだ。暗いなかで後ろからいきなり抱き着いてきたということは、エファの体格だけを見てことに及んだということになるのだから、正直、痴漢に間違えられても仕方がないだろう。
「あの状態で、惚れるなんてありえない」
「そんなことありませんよ。私はあなたに惚れています」
「だからっ、ありえないって」
唐突に、掴まれていた腕を引っ張られた。腰が浮き、前のめりにレオナルトの胸に顔から飛び込んでしまう。
手際のいい動きでエファの身体を抱えたレオナルトは、エファの肩口に自らの顔を埋めてすりすりと頬を摺り寄せてくる。
「――水の、甘い匂いがします」
「はい!?」
「あなたから、あの方と同じ匂いがするんです」
意味がわからない。
腰を抱えられて向かい合う形で膝に座らされているので、身動きもできずにエファは固まる。ふいにガタンと馬車が揺れて、とっさにレオナルトの肩に手を置いた。
「エファさん」
「なに?」
「すでに孤児院への寄付は手を回してあります。あなたはもう、私と結婚するしかない。……それはわかっておられますね?」
すっと顔をあげたレオナルトは、これまでと違って鋭い目をしていた。柔和な雰囲気が、鋭利な刃物でも突き付けられたように、冷たいものに変わっていく。
ぞくりと背筋に寒いものを感じて、神妙にコクコクと頷いた。
「わ、わかってる。あたしはもう、孤児院には戻れない。嫁ぐんだから、ちゃんと理解してるつもりだよ」
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