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07
「ルーファス。会って話したいことが……」
ルーの声は暗く沈んでいた。それに……震えてる?
「何があった?」
「大事な話があるの。この場所で……。待ってる」
それだけ言ってコンタクトは切れた。
様子がおかしかった。
何故、このタイミングでルーからコンタクトが? 何故、ルーはアジトにいるのか?
謎だらけだし、仲間が待つ指定の場所に早く合流しないと、追手が来るかもしれない。
でも、ルーも心配だ。
僕は少し迷って、アジトに向かう道を走った。
走って十分くらい経っただろうか。
アジトのマンションに辿り着いた。
階段を駆け上がってアジトに入ると、ビジョンに映っていた場所――リビングにルーが立っていた。
レストランで会った時とも、路地裏でぶつかりそうになった時とも違う。
白いワンピースに薄手のカーディガンを羽織っていた。
「ルー、僕は君にここを教えたことはないはずだけど?」
やっぱり様子がおかしい。
何かに怯えるように震えている。
「エア・ボーの試合があったあの日に……後を付けたから」
「何でそんなことを? 何があったんだ?」
「ルーファス……最初……私はあなたたちの情報を組織に渡すだけって約束で……あなたたちに近づいた。それで妹の手術代を払ってもらえて……妹が助かるなら……私はそれで良いと思ってた……」
イマトのスパイだったってことだろうか。
でも、だったら今頃になって何故それを。
「ルー、落ち着け。何の話だ?」
「でも……あの日……エア・ボーの試合の後……約束は変わったわ」
怯える瞳に涙が光る。
拭ってあげたくて、一歩前に進んだところでルーが言葉をつづけた。
「何故……最初は情報を渡すだけって約束だったのに……。私はあなたと妹……どちらかを……どっちも失いたくないのに……」
「まさか……ルー、君は……」
「欲張りだよね」
ルーはニッコリと笑っていた。
無理しているのはあからさまで、指先の震えを押さえるように、両の手をギュっと握りしめていた。
ルーは後ずさりした。
ルーの背後、大きな窓の外には、人工の月がぶら下がっていて――ルーと一緒に見ると、とても綺麗だと思った。
何かの絵画のようだった。
その綺麗な彼女を捕まえたくて――捕まえないといけない気がして、僕は前に出た。
でも――遅かった。
月の光に包まれた彼女は――ルーは、こちらを向いたまま窓から落ちていった。
僕は走り、窓枠に手を掛けたところで、閃光――遅れて爆発音。
粉塵が目の前を真っ暗に染めていった。
真っ暗に、落ちるように、視界がブラックアウトして。
僕はめまいで尻もちをついた。
「ルー……」
僕は窓枠に手を着き、フラフラと立ち上がった。
アジトの戸を押して、雨の匂いがするビルの階段を駆け下りて、何度も転びそうになりながら、ようやくルーが落ちた場所に辿り着く。
辿り着いて、跪く。
着地するよりも前の段階で、彼女の身体に括りつけられた爆弾が爆発したのだろう、壁には鮮やかな赤い華が咲いていた。
「ルー!」
指が、脚が、どこなのか分からない肉片が――どれだけかき集めてもルーにはならない。
さきほどまでルーだったものとは思えない「何か」が泥の上に転がっていた。
人工雨が降り注ぎ、僕の身体を冷やしていく。
「ねぇ……ルー、僕はまだ君に……お礼すら……」
身体の表面は冷えていくのに、身体の奥底でマグマのように煮えたぎるものがあった。
心臓が張り裂けそうで、苦しくて――自分で自分を制御できない。
「何で……こんな……」
息を吐いて、雨の湿った匂いを吸い込んで、僕は考える。
いや、考えるまでもない。
彼女が全てを語った。
イマトは、僕らがピンインに足を踏み込んだ時から、僕たちの侵入に気づいていた。
だから、ルーを――スパイを――「人間爆弾」を僕らに近づけた。
信用させて、情報を絞り出して、最後は爆発に巻き込んで殺そうとした。
「ルーは……妹の命を救いたくて……」
一時期前、犬に爆弾を仕込み、ターゲットに近づけて爆発させる暗殺が流行った。
けれど、犬の訓練費用が高いことと、周知の事実になりすぎて、誰もが犬を警戒するようになった。
冗談交じりで「人間が爆弾にさせられるのでは?」と笑い合っている者もいた。
イマトはその忌々しい冗談を現実にした。
自分でも制御できない何かが身体中で暴れまわって、ガチガチと歯が鳴っていた。
「でもさ……ルー、妹が助かったとして、それで、君の夢はどうなるんだよ……君が言ったんだろ……自分の気持ちが大事だって……」
僕は何度も息を吐き、無理矢理気持ちを落ち着かせて立ち上がった。
これまで感じたことがない黒い感情を胸に。
「イマト……」
僕はグローブPCでコンタクトを立ち上げた。
「ガガンバー」
意図せず声が震えてしまう。
僕の口調から何かを察したのだろう。
ビジョンに浮かぶガガンバーが心配そうな顔で尋ねる。
「どうした? ルーファス、早く集合場所に――」
小さく息を吐いて答える。
「僕は行けそうにない。先に行ってくれないか?」
一瞬の沈黙。
その後に落ち着いた声で一言。
「何があった?」
「何でもない。ただの気まぐれだよ。塩はアジトに置いておく。悪いけど取ってから行って。僕が既に捕まっていて、囮にされていると思うなら……罠だと思うなら取りに来ないがいいかもだけど」
「ちょっと待て、ルーファ……」
そこで一方的にコンタクトを切った。
イマト・ファミリーが本拠地に置く高層ビル――通称FAWが見えてきた。
雨にあたり続けた僕は、ずぶ濡れだった。
でも関係ない。
雨に濡れたまま、受付フロアに入った。
「止まれ」
マシンガンを持ったダークスーツの男が近づいてくる。
射程範囲に入ったところで、すかさず「前」に出て拳を放つ。
音もなく、悲鳴すら上げる暇さえなく、男は沈んだ。
監視カメラに捉えられたのか、エレベーター、エスカレーター、警備室からスーツ姿の男や警備員が現れる。
ヘリの墜落現場に行った構成員も少なくはないのか、想像していたよりも数は少ない。
僕はロビーを突っ切ると、エスカレーターを駆け上り、銃弾の雨の中を走った。
室外でも室内でも雨。
面倒だ。
「ドッグ・キャラバンの野郎だ! 殺せ!」
僕たちは悪ガキだ。
でも、キャラバン結成時に一つだけ誓った。
人は殺さない。
でも、その約束は守れそうになかった。
銃弾が飛び交う音を聞きながら、壁を背に乱れた息を整える。
飛び出し、フットワークで攪乱して拳を振るう。
殴り、殴り、殴り倒す。
相手は銃を持っている。
不意打ち、攪乱、あらゆる手を使ったとしても、無傷では済まない。
銃弾が頬をかすめ、腕をかすめ、爆風が肌を焼いた。
だが、痛みは感じない。
僕は立ち上がり、前に進む。
拳を振るっていると、ルーの記憶がチラついた。
もう戻らない声が、もう戻らない笑顔が。
その度に、拳のスピードが増していった。
僕の頭のリミッターが外れていくようだった。
気づけば、血にまみれた拳は「殺す気」で振るわれていた。
目の前の男を殴り、殴り、殴る。
床に伏す男は血と吐瀉物の池に沈み、静かに気を失う。
マシンガンを奪い取ってエレベーターに入る。
盗聴の際、イマトの部屋は割っておいた。
僕は迷わず最上階のボタンを叩いた。
最上階に上がる前に、やらないといけないことがある。
僕は先ほど拝借したマシンガンの弾を撃って天井にある緊急戸の鍵を壊す。
次にマシンガンの肩掛けの片方を切って、長い一本の紐にする。
マシンガンをエレべ―ターの壁に立てかけ、その上に乗ってジャンプ。
天井口に上る。
肩掛けだった紐でマシンガンを手繰り寄せれば「誰もいないエレベーター」の出来上がりだ。
エレベーターがイマトの部屋がある最上階に着き「チン」という間抜けな音の後にドアが開いた。
男たちのマシンガン掃射が終わり、怒声が響く。
「誰もいねぇ!」
「どういうことだ!」
男たちはエレベーター内を調べる為、中に入って調べ始めた。
一、二、三人……。
僕は頭の中で倒すイメージを描いた後、天井の緊急戸を蹴り飛ばして降りた。
一人は飛び降りざまの膝蹴り。
二人目は裏拳。
エレベータ外で待っていた三人目は、唖然とした表情を拳でぶち抜く。
エレベーターを出て、腹部から血が流れていることに気づく。
「いつの間に……喰らったんだ……」
だけど、立ち止まっている暇はない。
すぐに止血して床を蹴る――が、そこで足を掴まれる。
先ほど顔面に喰らわせた一人が意識を取り戻したのだ。
「邪魔をするな……」
僕は苛立っていた。
一刻も早くイマトに会わないといけないのに。
僕の苛立ちは拳に「殺意」という形で乗っていた。
この至近距離で全力の拳を放てば、確実に相手を殺す。
そう分かっているのに、止めることができなかった。
が――寸前で、ルーの顔が脳裏に浮かんだ。
「ダメッ!」
そう言われた気がして、僕はハッとなる。
放った拳を直前で逸らした。
目標を失った拳は、床にヒビを這わせる。
「ひ、ひぃ!」
今、拳を逸らしていなければ、この男は死んでいた。
気づかないうちに息が荒くなる。
落ち着かせようとしても――荒くなる。
一線を超えちゃいけない。
ガガンバーたちとだって約束したじゃないか。
僕は戦意を失った男を振り払い、再度床を蹴った。
寒い。指先が震えていた。
「僕は……」
暗い欲望が、破裂しそうな何かが、僕を突き動かそうとしている。
寒いのに汗が止まらない。
僕は膝を着き、額の汗を拭う。
滴り落ちる汗が、絨毯に染みを作っていく。
ルーの叫びを反芻する。
幻影だったとしても救われた。
一線を超えてはいけない。
ドッグ・キャラバンのメンバーで誓いを立てた時、僕はガガンバーに「何故、人を殺してはいけないのか」を尋ねた。
だってそうだろう。
ラビリンスではたくさんの命が失われすぎている。
日常茶飯事のように人が死んでいく。
その光景は僕らは何度も見てきたのだ。
でも、想像に反して、僕の一言は大喧嘩に発展した。
結局、ガガンバーは何も言わなかったけれど……今の僕なら分かる。
ルーを失った今なら分かる。
相手が誰であろうと、どんな理由があろうと、人が人を殺してはいけない。
僕は壁を叩いた。
落ち着け。冷静になれ。
何度も繰り返す。
息を整え、再度走る。
でも――僕はイマトを前にしても同じように自分を抑えることができるだろうか。
思考を整理している暇も、結論を出す猶予もなく、僕は最奥の部屋に辿り着いた。
ルー……。
浮かんでは消える残像を胸に、僕は豪奢な観音開きの戸を押した。
広い部屋の奥――デスクで一人、チェスを楽しむ男がいた。
金髪を後ろに撫でつけた巨体の男――イマトだ。
大きく息を吸い込み、一歩前に進む。
「ルーファスか。あの女、失敗したか。ククク、まぁ、いい」
イマトは眉を吊り上げ、頬杖をついて面倒そうにコマを動かしていた。
ネット対戦かAIと戦っているらしい。
相手側のコマは勝手に動いていた。
「僕たちがピンインに入った時から気づいていたんだな」
「そうだ。フクロウが捕まった時点で警戒したさ」
「フクロウ……? カジノの変態女か」
「騙し合いはマフィアの十八番だ。それを差し引いても、お前たちは目立ちすぎた。目立てばいくらでも対策を打てる。巨大な組織には資金力があるからな。資金力があれば、人海戦術で網を張れるのだよ。だが実におもしろかった。盗聴されていることも分かっていて芝居も打たせてもらった。ククク、そうとも知らずによぉ」
「ナンサンは知らなかったのか?」
「敵を欺くにはまず味方からと言うだろう。ちなみにお前らがブチまけたのは塩ではない。そっくりな別物だ。舐めりゃ直ぐ気づく」
「な!」
ルーが死んで、自分たちも命を賭して、それで得たものは価値がないもの。
ガガンバーがこの作戦を止めようとした時、何故、素直に従わなかったんだ。
あそこで止めていれば――足元がぐにゃりと曲がったような気がして、立っているのがやっとだ。
しっかりしろ。
後ろを振り返ったってどうしようもない。
イマトは盤上のコマを動かした。
こちらを見ようともしない。
「お前だけは……許さない」
「何をそんなに怒っているのか分からないが……。くく、そうか、プレゼントの人間爆弾がお気に召さなかったのかな?」
「……」
お前がルーを語るな。
殺意の視線を送る。
「ルーファス、俺はお前に興味がある。盗聴していたなら知っているだろう。俺は痛みに鈍感だ。そういう病気らしい。そして、ルーから聞いたよ。お前もそうらしいな」
「だったら何だ?」
イマトがチェスを止め、皮張りの椅子から立ち上がった。
双眸はオオカミのように鋭い。
「仲間にならないか? お前はアウトローの逸材だ」
「黙れ」
「ククク、交渉決裂か」
イマトは顎を触った後、巨躯を丸めてファイティングポーズをとった。
「生きては帰さないぞ」
「こっちのセリフだ」
イマトの巨体が一瞬消えた。
巨体に似合わない俊敏さで、瞬きの間に目の前に拳が迫っていた。
頬に受けた連撃はシャープで、ジャブとはいえ、咄嗟に頬を捻っていなければ倒れていただろう。
「くそッ!」
顎を引き、距離を取って再度構える。
「世の中は正しくない」
「知っている」
「お前だって気味悪がられただろう。俺らはモンスターだからな。だがな、人は俺らが痛みを感じないのが怖いんじゃない。人の痛みが理解できないから、恐ろしいんだ。そういう人間はイマジネーションがない。踏み込み過ぎて、人を傷つける。深く、えぐるようにな。そうだろう?」
「……だから何だ」
「復讐してやろう。この理不尽な世界に。俺たちを恐れ、見下してきた人間たちを跪かせよう。俺とお前は似ている」
僕とイマト――同時に放った拳同士が激しい音を鳴らしてぶつかり合う。
砕けそうな感触。
危ない。
痛みはほぼないが、骨が軋んでいるのが分かって、即座に距離を置く。
イマトも拳に何か仕込んでいる。
恐らく、過去、素手で殴り合った結果、拳を痛めたことがあるのだろう。
痛みに鈍感ということは、身体のあちこちをぶっ壊した経験があり、それらに対策を施す。
「シッ!」
イマトは巨体の割にフットワークが軽い。
いつの間にか距離を詰められ、二撃目、三撃目が脇腹、腹部にヒットする。
「ぐッ」
雑魚とは全然違う。
壁に手をつき、廊下に出る。
イマトは余裕の表情でこちらを見降ろしていた。
楽しんでいやがる。
圧倒的な力差を確信している間はチャンスがある。
僕は絨毯を蹴り、適当な部屋に転がり込んだ。
客室だろうか。
壁一面の大きな水槽の中を観賞用の魚が色鮮やかに踊っていた。
壁に背を預け、何度も息を吐く。
イマトに気づかれるまでに少しでもダメージを回復させたかった。
――が、そう長くはもたなかった。ドアが蹴破られた。
「かくれんぼは終わりだ」
睥睨するイマトの顔にノイズが走る。
思っている以上にダメージが蓄積されている。
それでも――僕は壁に手を着いて立ち上がった。
瞬間、既にイマトの拳が眼前に迫っていた。
僕は「前」に出て渾身の右ストレートを放つ。
イマトの拳は僕の頬をかすめ、僕の拳はイマトの顔面を捉えていた。
息が、空気を裂く音が聞こえた。
イマトは仰け反ってダメージを軽減、直ぐに体勢を整え、ステップで距離を取る。
大胆だが、慎重でもある。
図体と性格に似合わず繊細な戦い方だ。
「やはり……お前は優秀だ。普通はそこで踏み込まない。いや、踏み込めない。恐怖が先に来るからだ。ククク……痛みに鈍感だからこそできる戦い方だな」
鼻血を親指で拭い、再度構えたイマトはハッと鼻で笑った。
「だがな、それは俺も同じだ。そして、年季が違う」
見えなかった。
いつの間にか放たれた強烈な一撃。意識がトンだ。
その間に二撃目。
アバラが折られ、内臓を抉る一撃が入った。
あたりに吐血をまき散らした。
これは危ない。
ふらつく足取りで距離を置いて、重い腕を上げるも、その間にもう一撃。
背後の水槽が割れ、水があふれる中で、僕は床に倒れた。
薄れゆく意識の中、僕は昔のことを思い出した。
「ルーファス、遊びに行こうぜ」
ガガンバーの顔が浮かんでは消える。
イマトが言う通り、僕には「普通」が分からなかった。
自分の痛みが理解できないということは、他人の痛みも理解できないのだから。
気味悪がられたこともある。
でも、僕が道を踏み外しそうになった時、いつもあいつが僕の腕を掴んでくれた。
あいつがいてくれなかったら、僕はイマトのようになっていたかもしれない――。
「そうだね、僕はお前と同じかもしれない……」
「ハッ。急にどうした? 打たれ過ぎておかしくなったか?」
痛みは感じない。
汗さえ引っ込んでしまった。
でも、油断すると視界が光の線で塗りつぶされそうだし、身体中が重い。
これ以上戦ったら死ぬかもしれない。
これまでいくらか死線はくぐってきた。
だから分かる。
僕は死ぬ。
それが分かった途端、何かが吹っ切れた。
直立するのも難しくて、フラフラと立ち上がる姿は傍から見れば滑稽かもしれない。
それでも――僕は立ち上がった。
「同じだよ、僕らは。似ている。孤独で、寂しくて、弱くて、愛してもらいたくて、必死にもがいている……そうだろ?」
イマトが眉を吊り上げる。
「俺が弱いだと?」
「認めろよッ! 俺もお前も……ピーピー泣いてる赤子と変わらねぇんだよ!」
イマトの右ストレートを見切ってのカウンター。
イマトの顔面が歪む。
反動で後退し、壁に背中を預ける姿を確認する。
だが、まだ致命傷ではない。
体勢を整える前にもう一撃喰らわせないと。
「ぐぅ……」
「でも……僕は諦めない。お前のように負けはしない。どんなに厳しい状況でも、苦しい状況でも、立ち上がって戦う人たちの背中を見てきたんだからッ!」
ガガンバーが、キャンディーが、モンボーが――。
ルーが教えてくれた。
誰だって弱い。
でも、その弱さを知った上で「どうするか」で人は変わる。変われる。
弱さを受け入れて、戦うか、戦わないか、だ。
ルーは戦った。僕だって――。
「――ッ!」
言葉にならない叫び――目の前にある何かを掴むかのように踏み込んだ一歩は――真っすぐ打ち抜いた拳は――イマトの顎を貫いた。
イマトの一撃は寸前で交わした。
こすった耳が熱く、今にも千切れそうだ。
交差する拳、イマトの身体が崩れ落ちる瞬間――得体のしれない「何か」が胸の中に流れ込んできた気がした。
胸を締め付けるような痛み。
イマトの哀しみだろうか。
僕自身の痛みなのだろうか。
よく分からない。
音が消えて、スローモーになって、気づけば、イマトが床に大の字になっていた。
今ならイマトを殺せる。
殺したいほど憎い。
でも――それはきっとルーが望まない。
仲間たちだって望まない。
さっきも考えたはずだ。
僕にはまだやらないといけないことがある。
僕は血が出るほどに拳を握り、唇を噛みしめ、最後の作業の為に床を蹴った。
イマトのPCグローブやデータ格納キーに、余ったウイルス付きのシールを貼る為だ。
不正取引や名簿等、逮捕の為の証拠を全て管制局に送るよう、ガガンバーにお願いのメールを作成した。
ルーの妹の手術費用の面倒と安全の確保についてもお願いを追記する。
一通りの作業を終え、部屋の隅にある収納ボックスから緊急避難用のパラシュートを引っ手繰る。
パラシュートを着用したところで、視界が白んで大量の吐血。
うまく身体に力が入らない。
壁に手をつき、脂汗を拭いて少し休んだ後、窓枠に立った。
ピンインで最も高いビルから睥睨する夜の街は壮観で――黒闇をカラフルな光線とネオンが温かく包み込んでいる。
だが、この景色を味わっている暇などない。
追手の怒号を背中に受けながら、僕は空に向かって跳んだ。
エア・ボーで跳ぶルーも、こんな気持ちだったのだろうか。
ビルからなるべく離れたいが、着地地点の選択肢はそう多くない。
近くの公園にせざるを得ない。
冷たい風が何とか僕の意識を繋いでくれた。
一時的なものであれありがたい。
不格好に転びながら着地すると、予想通り、ファミリーの部下たちが出迎えてくれた。
まだ百メートル以上は距離があるようだけど――南と西から囲まれている。
数が多い。
公園を囲むように展開して動くだろう。
でも、もう顔が上げられないし、拳を握る手にもうまく力が入らない。
意識が混濁としていて、吐き気も収まらない。
「ここまで……か……」
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