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病院のロビーから出た瞬間、暑さに怯んだ。ずっと一定の温度に保たれたところにいたせいで、すっかり季節感というものを失っている。その前に外に出たのが事故の日──晩秋で、すごく寒かったから、一気に時間の経過を思い知らされた感があった。
マフラーの引っ掛かった自転車に引き倒されたところを乗用車に轢かれる、という大事故に遭った俺だったが、奇跡的に生きていた。と言うか、一度は心停止までいったらしいから、厳密に言えば生き返ったという方が正しい。そのまま二ヶ月意識不明だったそうだ。目覚めたら全身まともに動かせない状態で、退院できるまでには更に半年以上かかってしまった。幸いにも怪我自体は深刻なものではなく、後遺症もない。
久しぶりに帰った自宅は、ときどき親戚が持ち回りで掃除してくれていたお陰で、事故当日の朝出たときより綺麗になっていたくらいだった。荷物を置いて、家電のコンセントを差し直しながら家中を回っているうちに、やっと日常に帰ってこれたような気がした。
「なんか食べ物買ってくればよかったな…」
荷物があったし、歩き回るのが億劫で、まっすぐ帰ってきてしまったのだ。空の冷蔵庫は電源を入れたばかりで温い。冷凍庫には、空っぽの製氷皿だけが収まっていた。
「……」
なんとなく製氷皿に水を張って、冷凍庫を閉めた。
自室に戻ると、さっきつけたエアコンがようやく快適な温度にしてくれていた。久々に自分のベッドに寝転がると、どっと疲れが押し寄せてくる。病院から帰宅するだけだったのに、久々に外を歩いたせいだろうか。
室内が静かで、外の喧騒がよく聞こえた。うるさいくらいのセミと、子供の遊ぶ声。車の走る音。
ああ、俺、生きてるんだなあ。
そんなことを今更ながらに思う。
昏睡状態にあった二ヶ月の間、俺の魂は何処にあって、どう過ごしていたんだろう。夢のようなものをずっと見ていたようにも思うし、完全に機能停止していたようにも思う。起きたときになにも覚えてないのは、普段睡眠中に見た夢を忘れてしまうのと同じなのらしい。
ただ、なにかが引っ掛かっている。
忘れ物をしたような感覚が、目覚めたときからずっとあるのだ。そのうち気にならなくなるだろうと思っていたのに、ふとした瞬間、ささくれに引っ掛かったみたいな微かな痛みと共に、切れっ端みたいな何かが脳裏にちらつく。それは思い出せない苛立ちだけを残して奥に引っ込み、なにかの拍子にちらりと閃いてはすぐに消えるのだった。
「……」
収まりの悪さに寝返りを打つ。横向きになると、壁に掛かっているものに目がいった。不在の間にクリーニングに出してくれたのか、薄いビニールのカバーが掛かったコートが長押に引っ掛けてある。
「ん…?」
誰のだ、あれ?
落ち着いた色合いのコートは、丈が短めで肩幅が広く、明らかに俺のとは違っている。かと言って父のものでもないし、仮にそうだったとしても、出した覚えは全くない。掃除に来てくれた親戚が忘れていったんだろうか。でも、今夏だぞ。あんな厚手のコート、出すにもしまうにもおかしい時期だし、そんなに長く忘れっぱなしには…───
「…忘れ……」
唐突に、写真のように脳裏にその場面は浮かんだ。
病的に白い手が、そのコートを広げて持ち上げている。
このコート、知ってる。見覚えがある。
その写真のような切れ端を掴んで記憶を引っ張り出そうと、俺はコートをじっと見つめたまま身体を起こした。近寄って、カバーの中に手を突っ込み、直接触れてみた。チクチクした感触と、頭の中に閃く光景。
真っ暗な部屋。四角い月明かり。古くて軋む床。青みがかった闇───
「あ……」
いま──今、なんか思い出しかけた。
俺はコートを下ろし、もどかしくビニールを剥いだ。ぎゅっと抱きしめると、生地に染み着いた樟脳の香りが微かに鼻先をくすぐる。
「っ、」
雷に打たれたみたいに、全身に電流が走った。衝撃にコートを落とす。
身体が奥から震えていた。細胞が、魂が、はやく行けと急かしている。
ものすごく急いでいるつもりなのに、身体が追い付いていない。もつれそうな足で家を出て、すぐ隣のドアにすがり付く。
玄関のドアは、なんの抵抗もなく開いた。
のそのそと上がり込んだ室内はがらんどうで、窓も全部閉まっている。台所も、奥の部屋も。
ひとのいない部屋。人は、いない部屋。
「……馬鹿、」
やっぱり、一言目はそんなのになった。
「約束したじゃん…俺、ちゃんと来ただろ…?」
居るけど見えないなんて、そんなのはナシだと念を押しておけばよかった。込み上げてくるなんだか判らない感情が、勝手に涙を押し出す。
ざわざわと身体中が落ち着かないのは、あんたが傍に居るせいだけど、もうあんたのせいじゃない。俺が勝手に、欲しがっているだけだ。
「俺は…、欲張りだから、居てくれるだけじゃ嫌だ。声も聴きたいし、顔も見たい」
声が震える。喉が狭まって、息がし辛い。肺も心臓も強張って、身体中を冷たくする。
「触って…抱きしめたい。もう…苦しくて死にそうだ…!」
どうかしている。
この感情がなんだか解らないのに、彼が原因だと知っている。傍にいると苦しいのに、居てくれないのはもっと辛い。
「……」
応えはなく、部屋には俺が鼻をすすりながら喘ぐ音だけが響く。
「……告り損とか…酷いだろ、ばか」
手の甲で拭っても、全然涙が止まらない。どうしてくれるんだよ。せっかく生き返ったのに、この先の人生泣き暮らすなんて御免だぞ。
「なんか言えよ…! ホシノさんっ」
───がこん!
大きな音に、俺は振り返った。顔の筋肉が緩んで、それでも涙は止まらなかった。
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