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なんか外が騒がしいなと思って、自室のカーテンを捲ったのは、朝五時前だった。窓から見下ろすと、ちょうど救急車が門を出ていくところだった。七時過ぎに呼鈴が鳴って、出ると、隣の中川さんが目を真っ赤にして立っていた。
「吉田のおばあちゃんが、さっき亡くなって…」
「え……?」
「救急車が停まったからすっ飛んでいったのよ。吉田さん、一人だから。でも病院に着いてすぐ…」
中川さんは寝巻きらしいスウェットに、上着を羽織っただけの格好だった。まだ化粧もしてない顔を、涙でぐしゃぐしゃにしている。
「悟志くんも可愛がってもらってたでしょう…だから…」
「うん、知らせてくれてありがとう。…俺も行っていいかな?」
中川さんちはうちより前からここに住んでいるから、その頃すでに居たであろう吉田家とは交流が深かった。それでなくとも人当たりのいい人だったから、高齢で独居の吉田さんを気にかけていたのは、他にも大勢いたようだ。階下に行くと、吉田さんちの前にはもう何人かアパートの住民が集まっていて、何やら相談をしていた。
「のんちゃん、フミ君に連絡ついた?」
中川さんが、玄関にいる人に声をかけた。確かここの隣の人だったと思う。ちょうど電話を切ったところで、やっぱり泣き顔のまま答えた。
「うん、すぐに来るって。タケ君も。このノートのおかげですぐにスマホにかけられたから…吉田さん、ほんとにしっかりしてる…」
泣き笑いで掲げられたノートの表紙には、マジックで『終活帳』の文字が綺麗に書かれていた。
「お葬式に呼んで欲しい人とか、連絡だけでいい人とか、全部まとめてあったの。…奥の部屋にはね、遺品整理まで自分でしてあったのよ。なんだか、今日死ぬって、知ってたみたい…」
そこで、二人はまた泣き出した。
俺は、背中が冷たくなっていくのを感じていた。
───なんだか、今日死ぬって、知ってたみたい…
知っていた、のかもしれない。
───え…? 君、見えるの?
───普通の人間には私が見えないんだ。私が許可した人間か、寿命が尽きそうな者にしか見えない
吉田さんは、ホシノさんと会っていた。会話もしていた。でも、まさか…。
「…悟志くん、ちょっといい?」
声をかけられて、びくっと顔を上げた。俺がぼうっとしている間に、中川さんはもう家の中に上がっていて、居間に入りかけたところで振り返っている。手招きされるまま入ると、居間には吉田さんが布団に寝かされていた。枕元に座り、手を合わせる。昨日、元気な声を聞いたばかりだから、なんだかこうしているのが信じられない。
「おはよう、って言ったら目を覚ましそうよね」
隣で手を合わせていた中川さんが、寂しげに言った。でも、確かにその顔は穏やかだけれど、やっぱりもう生きてはいないと判る。皮膚も肉も“生命”という水気を失って、固く乾き始めているように見えた。
生命が水分なら、魂はそれが凝固して氷のようになるのだろうか…。
馬鹿なことを考えている。なんだ、その想像力。一々ホシノさんの言葉が被ってくる。嫌だ、そんな風には考えたくない。
「ねえ、悟志くん」
中川さんが静かに話しかけてきた。俺は顔を上げ、次の言葉を待った。
「“シマちゃん”って、吉田さんから聞いたことある?」
俺は、はっと息を飲んだ。中川さんも、ホシノさんを知っているんだろうか。
「吉田さんから直接聞いたんじゃないですけど…」
「知ってる人?」
その訊き方からして、どうも中川さん本人は“シマちゃん”を知らないようだ。
「ええ、まあ……その人がどうしたんです?」
動揺を抑えて訊き返すと、彼女は「ちょっと待っててね」と奥の部屋へ行き、何かを抱えて帰ってきた。
「これは…?」
結構大きめの紙袋で、封がしてあり、“シマちゃんへ”と書かれた紙が貼られていた。
「遺品整理がしてあったって言ってたでしょう? その中にあったの。でもノートには、その方らしい名前がなくて…」
連絡できずに困っていたのらしい。
「ここか、近所に住んでる人かと思ったんだけど、そんな名前の人は知らないし…。心当たりがないか皆に訊いてるのよ」
「……」
多分、ホシノさんは出会う人毎に違う名前を名乗っているのだろう。皆がそれぞれ別の名で呼んでいるとしたら、“シマちゃん”を誰も知らないのは当然だ。でも、なんでそんな面倒なことをするんだ?
「じゃあ、俺が渡しておきます」
「お願いね。よろしく伝えておいて」
「はい…」
紙袋を受け取ると、俺は早速立ち上がった。訊きたいことがたくさんあったし、何より吉田さんのことを伝えなきゃならなかった。いそいそと部屋を出ると、中川さんも着いてきた。
「さすがに着替えないとね…」
力なく笑う彼女と並んで階段を上がり、今日に限って閉まっているドアノブを掴んだ。開けようとすると、疲れたような声の中川さんが俺の肩を叩いた。
「ちょっと、あなたの家はもう一つ向こうよ?」
「あ、…でも」
「うん? じゃあやっぱり…」
中川さんは一つため息をつき、母親のような口調で言う。
「最近ここに入ってるの、悟志くんね。駄目よ、空き家に勝手に入っちゃ」
「空き家…?」
「このアパートが建ったときからよ。知らなかった?」
首を振ると、中川さんは「そりゃそうよね」と困ったように小さく笑った。
「一人でお留守番しなきゃならない子に、そんな気味の悪い話なんかしないわよね」
「…怖い話、なんですか…?」
「怖いって言うか、不思議って言うか…」
そう前置きして、中川さんは俺がずっと知らなかった、隣室についての事実を教えてくれた。
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