つめたいひと

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「怖いかい?」  ホシノさんは無表情のまま、俺に向かって手を差し出した。冷たい指が頬に触れる。 「現世に未練はある?」  また、あのときのような冷気を感じて、動きが緩慢になりつつある。俺は緩く首を振った。 「未練が残せるほど、濃く生きてない…」  十八年しか生きてないくせに、とか言われそうだけど、実際そうなのだ。生きている間は生きるための努力をするけれど、いざその瞬間が来たら、俺は死を拒まない気がする。死というものは、自分から親しい者を切り取ってしまうだけのものだった。自分もいつかそうして切り取られる。そういうものだ、と心が飲み込んでしまっている。 「もう、会えなくなるだけだろ」  ただそれだけのことだ。  なのに、なぜ今こんなに辛いと感じているんだろう。 「君は、君が言うほど死というものに淡白でもないのだろう?」  真正面にホシノさんの顔がある。気遣っているような、でも困ってもいるような口調で彼は言うけれど、その本心はさっぱり読めない。半分伏せられた瞳は今も闇そのものの色をしていて、その奥に何か心の動きがあるのかすら見えなかった。 「淡白だよ。そうでいたいとも思う。もう会えない人をずっと想うなんて、できないから…」  そう呟いた自分の言葉で、俺はこの辛さの意味を知った。  死んだらもう、ホシノさんにも会えない。彼の心の内を知ることもできないまま、二度と触れられることもない。  俺は多分、それが泣きたくなるほど哀しいのだ。 「…、三木くん…」  ホシノさんは言いかけた何かを飲み込み、代わりに俺を呼んだ。黙って瞳を見つめると、床についていた俺の手がそっと握られた。冷たさに、ぞくりと肩が震える。 「それでもいつか、時間(とき)が巡って、会えるかもしれない」 「慰めてんの…?」 「事実だよ」  ホシノさんの手が、俺の手を持ち上げる。白くて細い指が、俺の指先を伸ばすようにして掴んでいた。 「見て」  言われるまま見ていると、急に背筋が冷たくなった。と、同時に、掴まれた俺の指先から小さな玉のようなものが浮かび上がる。 「…!?」  それはビー玉くらいの大きさで、ふわふわしているようにも硬質にも見え、ぼんやりとした輪郭まで透明だった。 「これは君の魂のほんの一部。…触ってみる?」  恐る恐る、もう片方の人差し指で触れてみた。触った瞬間、身体の奥がビリッと痺れるような感覚があった。触れた指にはものが触っているという感覚はなく、ただなんとも言えない冷感だけがある。 「これ…」 「ね? 魂はちゃんとある。人の内に在って、やがて空に還り、時間を巡って、まだ生命の内に入る。それをずっとずっと昔から繰り返しているんだ」  そう言うと、ホシノさんは俺の指先を自分の口許に寄せ、その先に浮かんでいる玉に口づけた。 「あ…っ」  身体の芯が、さっきとは比べ物にならないくらいに痺れる。見れば、玉の上部が小さくかじり取られていた。ホシノさんは俺を見返し、わずかに口角を上げる。 「心配しなくてもちゃんと返すよ」  指で俺の顎を押し上げて、唇を寄せてきた。重なりあった唇の隙間から、するりと冷たいものが滑り込む。 「…っ!?」  ホシノさんの舌先は、かじり取った欠片を押し込むと、すぐに離れた。欠片は確かに氷のようで、口に入った途端、溶けるように冷感も消えた。いつの間にか、指先の玉も消えている。  でも、そんな不可思議な現象よりも、ホシノさんと唇を合わせたことの方が衝撃的だった。  まるで氷でも押し付けられたかのような感触は、俺の唇を冷やしながら内側に火を点ける。身体のずっとずっと深いところからじわじわと延焼して、そのうち全身に回ってしまいそうだ。 「…っ、ばか…っ! なんてことすんだよ…!」  熱で膨張した心が、心臓を潰しそうなくらい圧迫している気がした。ぎゅっと苦しくて、吐き出してしまいたくなる。思わず口許を指で押さえると、涙腺の方が決壊してしまった。 「ちょっとかじったくらいじゃ死なないよ。…泣くほど怖かった?」  目を丸くしたホシノさんに問われて、首を左右に振った。 「そっちじゃなくて…」 「うん?」  ホシノさんは無表情で首を傾げる。本当に解っていないのか、とぼけてるだけなのか判別できない。説明を待っているのか、じっと見られてて頬がどんどん熱くなる。 「だから、その…口移し的なやつの方が…」  唇と喉が凍ってしまったんじゃないかってくらい、モゴモゴした言い方になってしまった。 「キス…みたい、だったから…」  たったこれだけを言うのが、なんかものすごく恥ずかしい。 「……ああ」  納得したのかしないのか、頷くような素振りをしながらも、ホシノさんは無表情だ。そのまま見られているのがなんとなく居心地悪くて、目をぎゅっとつむった。握られたままの片手と顔が冷えのぼせたみたいに熱くなってきて、弁明するみたいに訊かれてもいないことまで喋ってしまう。 「こないだから…おかしいんだ、俺。なんか…ホシノさんに触られると身体が冷たくて…でも熱くて…」  まだ、見つめられている。目を閉じていてもそれが判った。  夢の中で話してるみたいに覚束ないまま、言葉は勝手に溢れている。 「ワケわかんなくなるんだ……食べられちゃっても、いい……とか」  なにそれ。  いつの間にか、なんかとんでもない告白をしちゃっている。 「三木くん…」  ウソウソ、真に受けるなよ、と言おうとしたけど、抱き締められたせいで言えなくなった。首に押し当てられた頬も、背中に回された腕も、ホシノさんの身体は全部冷たい。なのに、ゾクゾクと自分の身体が震えたのは、寒さのせいじゃないとわかる。全身が、魂が、彼に触れられてざわついている。 「まったく…。君は、私がどれだけ我慢しているか解らないのかい?」  怒って見せるつもりで言ったのかもしれないけど、俺にはその声が酷く苦しそうに聞こえた。そっと手を伸ばして、その後頭部を撫でる。 「…だから、我慢しなくていいってば…」 「いやだ」  駄々をこねる子供みたいに、彼は言った。 「食べなよ」 「駄目だって言ってるだろ」  突き放すような口調に反して、俺を抱きしめている腕に力がこもった。俺はもう片方の腕を彼の背中に回した。薄いシャツ越しの身体は痩せていて、冷たくて、……俺を熱くする。 「味見は…したじゃん」  俺の言葉にホシノさんはわずかに顔を上げ、その黒髪が頬をくすぐった。ほんの少しの身じろぎでさえ、過剰に肌を刺激する。 「ああ…そうだね。……味見か。いい表現だね」  自嘲気味の声は、俺の首筋辺りで消えた。 「じゃあ…もう少しだけ…」
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