つめたいひと

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 どこか遠くの方で、なにか大騒ぎしている。怒鳴り合うような声と、金属音。振動は、連続するガラガラ小さいのと、バシッと大きいのが一発。  辺りは真っ暗で、目が開いてるのかどうかも判らない。宙に浮いてる感じでもあるし、寝そべっているようでもあった。 「やあ」  と、誰かが言った。 「気分はどう?」  そう訊かれても、答えられない。眠いようなそうでもないような、なんだか全部がぼんやりと覚束ない感じだ。  そうだろうね、と彼は言った。 「君は今、とても中途半端な状態だから」  なるほど、そうなんだ。と、解ったような解ってないような返答をする。でも、こっちがどう答えようが、相手には関係ないようだった。 「暗いのもなんだし、行こうか」  そう言われたときにはもう、よく知った場所にいた。何もない、がらんどうの古びた部屋。立っているのに、地に足がついていないような、ふわふわと頼りない足元。自分に質量がないみたいだ。  声の主は窓際に立っていた。痩せた長身の男だ。ベランダに半分身を乗り出して外を見ている。 「私は…この建物が建つずっと前から、この辺りに存在していた。まあいわゆる縄張りというやつでね。この界隈で死んだ者の魂を摘んで糧としていた」  話を続けながら彼はベランダに出て、柵に肘を乗せて下を覗き込む。 「その子供と会ったのは、百二十年ほど前だったかな。まだ五つかそこらだったけど、病気で命が尽きかかっていた。頃合いを待って傍に降りたら、目が合ってしまってね」  目の前にノイズが走って、急に場面が変わった。古い映画でも見せられているみたいに、こっちの意志を無視して視点が変わる。  枝の細い木の植わった庭から、縁側のある日本家屋が見えた。どこか見覚えのある感じがするのは、ドラマのセットでも置いてあるかのように典型的な光景だからだろうか。  視点がゆっくりと家の方に向かう。開け放した障子の向こうで、座敷に敷かれた布団に子供が一人で寝ていた。その薄青い瞼がゆっくりと開いて目が合う。  色素の薄い、硝子玉みたいな瞳がゆらゆらと揺れた。  誰、と小さな唇が動く。  迎えに来たよ、と彼の声が子供に言った。声は自分のいる辺りから発せられた。どうやらこれは彼の視点で、その記憶にある光景なのらしい。 「君はもうすぐ死ぬんだよ。お腹のこの辺りの重い感じが、段々と強くなっているだろう」  彼の手のひらが、布団越しにお腹の辺りを撫でるのを見下ろす。黄色地に赤い手鞠模様という布団の柄が、なんだか懐かしい感じだ。 「うん。すごく痛い」  子供は眉を寄せて、辛そうに答える。乾いた肌は青白く、唇の色も悪い。五歳ぐらいだと彼は言ったけれど、小柄なせいか、もっと幼く感じる。 「ねえ、死んだら痛いのは終わる?」  掠れた声が訊いた。 「終わるよ」  と、彼は素っ気なく答えた。 「痛いのだけじゃない。君の魂は私が食べてしまうからね。もう全部終わり」 「終わったらどうなるの?」 「終わりは終わりだよ。魂は消えて、そこから先はない」 「生まれ変わって、また始まるから?」 「いいや。もう次はないよ」 「どうして?」  不思議そうに、その子は訊いた。あどけない問い方に反して、続く内容はとても重い。 「おばあちゃんが教えてくれたよ。今は痛いけど、この次は痛くない身体に生まれ変われるから、そうしたら、きっとまたこのおうちに戻っておいでって」  枕元には経典が置かれていた。もう誰も回復を祈れないでいるのか。現世ではなく、来世の幸せを説くほどに。 「だめなの?」  と、弱々しく訊き返す。 「もうみんなには会えないの?」 「みんなにも、誰にもね」  答える声は冷酷だ。 「あなたが食べると、みんなそうなるの?」 「なるよ」 「そんなのだめだよ」  意味が解っているのかどうか判らないけれど、そう言って子供は大粒の涙を浮かべた。瞳までこぼれ落ちるんじゃないかというくらいに、ぽろぽろと涙が浮いては落ちた。そんなに表面が渇ききっているのに、どこにそれだけの水分を隠していたんだろう。無感動に、そんなことを考えている。見ているこっちには、何がそんなに辛いのか全然解らないのだ。  その無感動さは、自分のものではない気がしたし、うわべの感情を剥がせばこんなものなのかも知れないとも感じた。可哀想だとか、励ましてやりたいだとか、そういうのが抜け落ちてしまっている。  多分、これは彼の内情なのだ。“人ならそんな風に思うのだろう”という意識も在って、抜け落ちた部分を冷たく見下ろしているようだった。  ただ、ひとつだけ感情らしいものも存在した。  涙の中で光っているような子供の瞳が、とても綺麗だと思っている。その子の魂そのものみたいに、ゆらゆらと頼りなく輝いているのが。  触ってみたいと思った途端、視界が旋回して、元の部屋に戻った。 「変わった子だったよ。食べられた皆が家族や友達に会えなくなるのは嫌だって泣いてね。そういうのは、自分で最後にしてほしいって言うんだ」  男はベランダから移動して、目の前に立っていた。長めの黒髪と、吸い込まれそうなほど黒い瞳は、どちらも青みがかって見える。 「うっかり約束してしまったからね。その小さい魂も食べる気になれなかった」  彼は目を閉じて、懐かしむ風でもなく言う。 「その次は生まれてすぐ、その次は九年、次が三年。百二十年のうちの、たったそれだけ。ここじゃないところにあの子は実を結んで、また還っていった。会うことはなかったけれど、そういうのは、分かるんだ」  最後の一言にだけ気持ちが載っていたようで、ちりっとする痛みのように腹が立った。 「…さよならって言ったくせに」  恨み言を言いたいわけじゃなかったのに、口をついて出たのはそんな言葉だった。 「もう会えないって思った…」 「会わないよ」  と、彼は冷淡に言った。 「今こうしてるのだって、君は忘れてしまうし」 「忘れない」 「忘れるよ」 「絶対、忘れない」 「じゃあ…そうだね、」  微かに息を吐いたのは、呆れたからか、諦めたからか。 「もしも覚えていたら、会いにおいで」  一瞬間を置いて、彼は言った。 「会いに行ったら、ずっと…傍に居てくれる? どこにも行かないって約束して」  子供みたいなことを言ってる。でも、言わなければと思った。なぜだかは知らない。死ぬことより、消えてしまうことより、この先彼に会えないことの方が辛い。 「行くもなにも、ここが縄張りなんだって」 「絶対だな」  冷たい手を取って、強引に小指同士を絡める。彼は唇の端をほんの少しだけ上げて、わずかに感慨深げに聞こえる声で呟いた。 「…これは二回目だ」  あのときは小さくて弱々しかったなあ。  ───そして俺は、目を醒ました。
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