つめたいひと

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「おおい、三木くん、おはよう」  頭上から降りかかる声に立ち止まった。振り仰ぐと、二階のベランダから身を乗り出した声の主は、氷を口に放り込んでからヒラヒラと手を振った。そろそろマフラーもいるかっていう時期に、薄手のシャツ一枚で平気な顔をしている。 「今から学校かい?」  がりがりと氷を噛み砕き、長すぎる前髪を細い指で掻き上げる。張り上げているわけでもないのに、冷たい空気を滑り降りてくるように、その声は中庭にいる俺の耳に届いた。 「…一応言うけど、もう少し暖かい格好しなよ」  会う度に言っているけど改善されそうにない提案を、ため息混じりに呟く。そんな小さい声でも、あの地獄耳にはしっかり聞こえてしまうのらしい。すぐ隣で会話しているくらいの距離感のなさで、答はすぐに返ってきた。 「一応聞いとくよ。まあ、私はこれで充分だけどね。…行ってらっしゃい」  相手はそう言ってまたヒラつかせた手を、もう片方の手で大事そうに抱えているボウルに突っ込んだ。中に入ってる氷を掴み出し、ごりごりと噛み砕く。見ているだけで寒くなるんだけど、この人はいつ会ってもこうなのだ。 「…行ってきます」  軽く手を振り返してから、小走りに門を出る。そんな簡単なやりとりがなんだかくすぐったくて、そこから早く逃げ出したかった。誰かに朝の挨拶をされることなんて、珍しいことでもなんでもないのに。  ああ、きっとあれだ。「行ってらっしゃい」なんて言われたから。  この三階建ての古いアパートには、生まれたときから住んでいる。小さい頃に母が亡くなっていたから、出張の多い父との生活はほとんど独り暮らしみたいなもんだった。去年の暮れにその父も出張先で事故に遭い、そこから先は本当の独り暮らしになった。同居を申し出てくれる親戚も何人かいたけど、十七年で培った生活力がそれを断れる大きな説得力にもなって、俺、三木悟志は独りでここにいる。行ってらっしゃいを言い合う相手がいつもいる、なんて環境ではないのだ。  でも、十八年も暮らしてんのに、隣にあんな変な奴がいたなんて知らなかった。訊けばあのアパートが出来た頃から住んでると言う。だとしたらもう五十歳ぐらいな筈で、どう見ても二十代前半な彼に適当なことを言われたんだとしか思えない。暮らしぶりも相当適当みたいだから、いまいち信用もできないんだけど、どういう訳かなにかとちょっかいをかけてくるから仕方なく付き合ってはいる。信用はできないけど、嫌な奴ではないのだ。  そもそも、出会いからして変だった。隣人でなければ絶対に関わったりしていないと思う。それは今から三ヶ月ほど前、うだるように暑い午後のことだった。
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