つめたいひと

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 その日、久々にバイトから解放された俺は受験勉強を再開していた。お盆の間は大学生達の帰省でシフト表に穴が空きまくってて、そこに俺ががっつり放り込まれてたわけだ。稼げるときに稼ぎたかったとは言え、進学する気でいるから勉強時間が減ったのは辛い。金銭的にも時間的にも塾に行く余裕なんてないから、ぼやいてるヒマがあったら英単語の一つも頭に入れておきたいところだ。  玄関の呼鈴が鳴ったのは、昼を回ってだんだん集中力が落ちてきた頃だった。何かの勧誘くらいしか来なさそうだから無視しても良かったんだけど、もしかして回覧板だったりしたらまずいなと思い直した。  勧誘の場合の対策として、ドアを開けずに「どちら様ー?」と声をかける。留守番中に誰かが訪ねてきたら必ずそうするようにと、子供の頃に父から教わったことを未だに守っているだけなんだけど。  少し躊躇するような間が空いた後、ドアの向こうからおずおずと声が返ってきた。 「あの…隣の者ですが……すみません、電話をお借りできませんか?」  電話? 壊れたとかそういうことなんだろうか。聞き覚えのない声だから、左隣の中川さんじゃないのは確かだ。でも右隣は空室だった気が…ああ、そっか。引っ越してきたばかりで、まだ通じてないとかなのかな。  そんなことを数秒のうちに考え、俺はドアを開けた。扉の向こうにいたのは、やけに顔色の悪い、ひょろっとした若い男だった。肌は透けるように、というか病的に色が白く、長らく切っていないらしい髪は、青みがかって見えるほど黒い。恐縮しているからなのか元々猫背気味なのか、身を屈めるようにして立っている。 「スマホでよければ…ちょっと待っててください」  あんまり観察するのもなんなので、俺はそう言って奥に向かった。広げた問題集のそばに置いてあったスマホを掴んで戻ってくると、なんだかしょんぼりして見える隣人に渡した。すると、彼はとても不思議そうにスマホを眺めてから俺に向き直り、ちょっと困ったように笑った。 「あの…これ、どうやって使えば…?」 「へ?」  見たところ二十代前半ってところなのに、スマホを使ったことがないらしい。俺は少々呆れたものの、深くは突っ込まずにスマホを返してもらった。「どこにかけるんですか?」と訊きながら構える。使い方を教えるより、自分がかけた方が早そうだ。ところが、相手は困ったような笑みを浮かべたまま、小首を傾げて「いやあ…」と濁す。 「うん、あの…どこにかけたらいいのかも…よく分からなくて」 「はあ?」  なんなの、この人ー?  さすがにイラッとしたが、ご近所になるならあまり無体なこともできないと、ぐっと堪えて質問を変えた。 「じゃあ…どうして電話しようとしたんですか?」  理由を訊けば、かけるべき相手が判るかもしれない。さすがにそれが分からないなんてことはなかったらしくて、彼の表情がほっとしたような笑みに変わった。 「実は、製氷機の調子が悪くて、修理を頼もうと思ったんだけど…」  意外に普通の答が返ってきて、こっちもほっとしてしまった。 「ああ、なるほど。じゃあ、メーカーに依頼した方がいいのかな」  それとも近くの電気屋さんに言った方がいいのか。確かに、どこにかければいいのかちょっと考えてしまう。まあ、どこで訊くにしてもメーカーやら型番やらが必要になるんじゃないだろうか。そう言うと、それも分からないと言うので、現物を見るために一旦部屋へお邪魔することになった。  部屋に入った俺は、その様子を見て納得した。電話どころか、家具らしいものが何も無かったのだ。どうやらまだ全然荷物が届いていないのらしい。間取りがうちと同じなだけに、なんだか不思議な感じがする。 「ええと、こっちなんだけど…」  手招きされて台所に入ると、一つだけ、それもあまり見慣れない物があった。シンク横のスペースに置かれているそれが、問題の製氷機らしい。冷蔵庫の自動製氷機の部分が壊れたんだと思い込んでいたから、氷を作るだけの機械が一般家庭の台所に鎮座しているのに驚いた。 「で、これが?」 「だんだん冷えなくなっちゃってね…」  泣きそうな顔で製氷機を開け、小さな氷の欠片が幾つか水に浮かんでいるのを見せた。俺が直す訳じゃないから、そこを見せられても困る。側面に型番が書かれているのを見つけ、とりあえず検索したサービスセンターに電話をかけた。オペレーターに繋がったところで代わろうとしたら、両手を顔の前で合わせて、必死な表情でお願いします的なジェスチャーをされてしまった。ホントなんなんだよ、この人…。俺よりずっと大人に見えるんだけど、違うのか?  仕方なく症状だの型番だのを相手に伝え、なんとか修理に来てもらう話にまで持っていけた。そこで、当然の質問をされる。 「名前訊かれたんだけど」  スマホを遠ざけるようにして小声で訊くと、なぜか彼は半笑いで視線を泳がせた。 「あー……ホシザ…ホシノです」  明らかに製氷機のメーカー見ながら言っただろ。完全に偽名だけど、今そこ突っ込んでもしょうがないのでそのまま名乗った。 「明日来てくれるってさ」 「明日!?」  修理依頼を済ませてそう言うと、自称ホシノさんはややオーバーアクション気味に驚いて見せ、絶望的な声を上げた。 「そんな…!」 「しょうがないよ、今すぐは無理なんだって」  思わずなだめるような口調になってしまったが、なんでそんなこと言ってんだろう、俺。相手が子供ってわけでもないのに。 「あああああ、なんてことだ…」  ホシノさんはこの世の終わりが来たみたいに顔を両手で覆い、肩を震わせている。なんでたかが氷くらいでここまで嘆くのかまったく解らない。解んないけど、泣きそうな顔を見ていたら、ちょっと可哀想になってきた。 「…うちの氷あげようか?」  そんなくらいしか思いつかなかったんだけど。 「え? いいんですか!?」  ぱああっといきなり表情が晴れた。どんだけ必要なんだよ。  ボウルに製氷皿の氷をあけて持ってくると、ホシノさんは「ありがとう」と言うやいなや氷を一つ口に放り込んだ。結構大きめの氷なのに、ものともせずにガリガリ噛み砕いている。まるで数日ぶりに食事にありついた人みたいな勢いで、次から次へとかじりつき、あっという間に製氷皿一つ分の氷を食べてしまった。 「ああ…やっと少し治まった。ありがとう」 「いえ…どういたしまして」  俺は返されたボウルを受け取ると、そそくさとうちに帰った。なんかこの人怖い。根拠はないけど、深く関わってはいけないような気がした。
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