つめたいひと

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 それから三ヶ月、俺はこの通りピンピンしている。当然だ。  身体の弱かった母から生まれたとは思えないほど健康で、生まれてこのかた病気らしい病気にかかったこともないんだから。不慮の事故ってやつにも、今のところ遭遇していない。それでもなんとなく、登校やバイトの出勤なんかは以前よりも周囲に注意を払うようになった。「死ぬ」って言葉は心のどっかに引っかかっていて、からかわれただけだと解っていても気にはなる。そのおかげで回避できた、ってわけじゃないんだろうけど。  それより問題なのは、隣人の対処法の方かもしれない。  最初にあんな出会い方をしたのに、ホシノさんはわりと頻繁に“普通のお隣さん”として俺に接してくる。俺としては偶然会ったら挨拶するという程度の付き合いに抑えたかったんだけど、このつかみどころのない隣人はちょっと変わった感じで絡んでくるのだ。背後に忍び寄っていきなり耳元で囁くとか、突然肩にひんやりした手を置いてくるとか、子供のイタズラみたいなことをする。多分、俺がその度に飛び上がるほどビビるから面白いんだろう。何度やめろと言っても、仲良くするためには必要なコミュニケーションだ、とか言って、一向にやめてくれない。小学生ならまだしも、いい大人がすることじゃないし、本当の意味での“普通”とはだいぶ一線を画しているのだが、本人はこれで普通だと思っているらしい。  ホシノさんちはいつもドアを開けっぱなしにしていて、そのせいで遭遇率も高かった。大抵は玄関に座っていて、通り過ぎようとする俺に声をかけるのだ。 「やあ、三木くん。ちょっと寄っていかないかい?」  最初のうちは断っていたんだけど、毎回あまりにも寂しそうな顔をするから、つい上がっていくようになってしまった。受験勉強の息抜き程度には相手をしてもいいかな、くらいの気持ちだったのに、ここんとこは毎日のように部屋に上がっている。この家には電灯がないので、夕方暗くなるまでの数十分しか滞在はしないんだけど。  相変わらず部屋の中はがらんどうで、家財道具はひとつもない。時々、製氷機だけがその存在をアピールするかのように、がこんっと氷を落とす大きな音を立てた。 「どうでもいいけど、寄ってけって言うなら飲み物の一つも出せよな」  奥の部屋──うちでは俺の部屋に当たる場所に入りながら、俺はいつものように文句を言った。 「出さなくても持ってきてるでしょうに、君は」  ホシノさんは俺が持っているコンビニ袋を指差して、いけしゃあしゃあとほざいた。これもここ最近定番のやり取りだ。  ホシノさんはずっと自分だけ氷を食べているのに、客である俺にはなにも出さない。まあ、冷蔵庫もやかんもカップの一つもないんだから当然なんだけど、客を呼ぶなら揃えろよ、そのくらい。仕方ないから、家に帰る途中のコンビニでなにかを買ってくるのが習慣付いてしまった。ちなみに今日は肉まんと暖かいお茶だ。なんにもない部屋でおやつを広げていると、秘密基地で遊んでるみたいでちょっとワクワクする。こういうのも、ここに通ってる理由の一つかもしれない。 「というか、そんなんでよく生活できてるよね。…実は、別にちゃんとした家があるんじゃないの? そんで、夜中だけそっちに帰ってるとか」  冷たい床にじかに胡座をかくと、ホシノさんも正面に座った。氷を頬張りながら、 「ほんあほほあいお」  と答えた。結構な美形なんだからやめろ。 「…私の家はここだけ。製氷機さえあれば困ることなんてないよ、人間じゃあるまいし」 「あ、そ」  またこれだ。一見普通そうな態度をとるのに肝心な部分は全部謎で、それについて訊くと必ず「私は人間じゃないから」で終わらされる。本名どころか、俺と会っていない間何をしているのかもさっぱり分からない。常に氷の入ったボウルを抱えていて、話の合間にも美味しそうに食べている。氷食症なのだけは間違いないようだ。 「そのボウル、結局私物化してるし。なくて困らないなら返せよ」  彼が大事そうに抱えている黄緑色のボウルはうちので、二度目に氷をあげたときから返却してもらっていない。指摘すると、ホシノさんは焦って、ボウルを更に抱き締めた。 「いや、これは、すごく便利だなあって…」 「はあ…。いいよもう。あげるよ、それ」  呆れた末に諦めた。本当に返してほしくて言ったわけでもないし。 「そう? ありがとう」  にっと笑って、ホシノさんはまた氷をかじる。そう言えば、あの怖い食べ方を見たのは、最初のあのときだけだ。まあこれだけ常に氷を食べてるんだったら、製氷機が壊れてる間に飢餓状態に陥っても不思議はないか。──いや、普通はないけどな、そんな状況。  なんかこの人見てると、他の氷食症の方々に申し訳なくなってくる。多分、こんなんじゃない気がするんだ。いや、絶対違う。
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