つめたいひと

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 ため息混じりに、肉まんにかじりついた。もうずいぶん冷めている。まあこれだけ寒かったら無理もない。今年は冬のくるのがすごく早い気がする。出したばかりのマフラーだけじゃ寒くて、そろそろ学校用のコートを出そうかと思ってるくらいだ。  なのに、正面にいるこの人の格好はなんなんだ。  薄い長袖のTシャツ一枚に細身のジーンズ、裸足と氷。見てるだけで寒い。夏からずっとこんな感じの格好だ。 「…まさか、服もないなんて言わないよな」  お茶を啜ってから、ボソッと訊いてみた。そんなのでもしっかり聞き取っていて、ホシノさんはなんでもないことみたいに答えた。 「ないよ」 「でもストーブくらいはあるんだろ?」 「ないよ、そんなもの」 「ないのかよ!?」 「要らないから」  涼しい顔ってのはこういうのをいうんだろうな、っていう表情で、ホシノさんは言った。 「いや、死ぬから」 「死なないってば」  同じアパートに住んでるから言わせてもらうけど、夏場はエアコンがないと灼熱地獄だし、暖房がなきゃ冬は極寒地獄になるんだぞ、ここは。 「築五十年ナメんなよ!」 「なんでそんなに必死なの?」  呆れられてしまった。いや、だってあんまりにも平気そうだったから、ついムキになって……って、だけでもないか。 「…寝覚め悪いだろ、隣が事故物件になったら」  死ぬの死なないの言ってたら、余計なことを思い出してしまった。おかげで声に力がなくなる。 「忠告くらい聞けよ」  人なんかあっけなく死ぬ。朝頭を撫でてくれた人が、昼には笑ってくれなくなる。出かけていったまま、もう二度と帰ってこない。そんなのはきっと、よくある話なんだ。 「…私は人間じゃないよ」 「ハイハイ、そーだったね」  お決まりの台詞と、辛気臭くなった空気を追い払うように、俺はひらひらと手を振った。 「まだ信じてない?」 「そういうの信じるほど子供じゃないぞ、俺は」 「……」  ホシノさんは不服そうに唇を歪めたけど、反論はしなかった。ここで黙られると、なんだか俺がすごく悪いみたいじゃないか。無表情で半分目を伏せているホシノさんに、なにを話せばいいのか分からなくなって、適当なことを言ってしまった。 「……ならさ、証拠見せて」  なに言ってんだ、俺は。  思いつかなかったからって、そんな子供みたいなこと言ってどうするんだよ。子供じゃないと言った先から子供な発言だと、突っ込んでくれるんならそれでもいいのだろうけど。 「───見せようか?」  ホシノさんは、至って真剣な表情で返してきた。  ホシノさんの“死神”設定はよくできてるから、逆にノッてしまったみたいだ。なんかそれっぽいことでも語り出すんだろうか。 「証拠…って言うより、実演だけど」 「…え…っ?」  実演? 何の?  言ってる意味がよく飲み込めないでいると、ホシノさんは無表情のまま、抱えていたボウルを脇に置いた。 「君がいいって言うなら、君の魂を食べてるところを見せてあげる」  床に手をついて、ゆっくりとにじり寄ってくる。古い床板が、みしみしと軋んだ。動作はやけに遅いのに、距離がそれほど空いてなかったせいで、すぐに間を詰められた。そっと、肩に手を乗せられる。途端に、冷凍庫に入ったみたいに周りの空気が冷たくなった。 「ひ……っ」  病的に白い顔がすぐ傍に寄せられた。そろそろ陽が陰って薄暗くなろうとしている部屋の中で、その肌だけが浮かび上がるように白い。細い顎、薄い唇、じっと見返してくる、暗い瞳。青みがかったそれは、まるで底も終わりもない闇のようにも、暗い水面のようにも見えた。 「食べ終わる頃、君は死ぬ。天国にも地獄にも行けず、輪廻の()にも乗ることはない」  感情のこもっていない声が頬に滑り落ちてくる。そんなわけないのに、ホシノさんが言葉を発するほど、冷たい雨でも浴びてるみたいに身体が冷えていく気がした。 「私のなかで、ゆっくり消えていく。氷が溶けていくように」  細い指先がマフラーをほどき、首筋にじかに触れる。あまりの冷たさに肩が竦んだ。  冷たい。怖い。  なのに、それだけじゃない感情が、身体の深いところから涌き出てくる。身体の表面は恐ろしく冷えているのに、中心では得体の知れないなにかがざわざわと蠢いて熱を発しているかのようだ。  ホシノさんが俺を食べる──生きながら彼に魂を食べられる。  あの唇で、歯で、氷のように貪り喰われる。  ───観たい。  あのときの異常な氷の噛み方が脳裏に浮かんで、背筋がゾクゾクとした。そうやって彼に喰われている自分を観てみたい──とても正常だとは思えない欲望が、自分のなかに発現している。死を望んでいるわけではなく、受け入れそうになっていることに恐怖しているのに、その唇が魂に触れるのを待ってもいる。  ホシノさんの指が、ゆっくりと首から顎、頬へと移動してきた。氷の刃で撫で上げられたら、こんな感じなんだろうか。喉が凍って声が出せない。目を閉じられない。逃げられない。──そう、逃げることなんかできないんだ。 「───っ」  唇が近づいてくる。ああ、食べられちゃうんだ。俺は抵抗しなかった。  ところが、  ───がこん! 「っ!?」  突然、部屋の向こうから大きな音が響いた。俺は思わず声にならない悲鳴を上げてしまった。それは製氷機が氷を落とす音だったのだけど、このシチュエーションでは俺をビビらせるのにも、ホシノさんの動きを止めるのにも充分だった。 「………」  俺の鼻先で止まった唇が、ふ、と薄い笑いの形に開いた。 「危ない危ない、うっかり食わずの誓いを破るところだったじゃないか」 「………はい?」  拍子抜けするほどあっさりと、ホシノさんは身を引いた。同時に、異様なほどだった冷気も引いていく。夜に近づいているせいで入ったときより肌寒いかな、程度に室温が戻った。気が緩んで、肩が落ちる。なんだかすごく疲れていた。 「ああ、でも」  と、ホシノさんが思い出したように言ったので、だるい首を持ち上げた。部屋はだいぶ暗くなってきて、自分もホシノさんも暗がりに溶け込もうとしている。 「キスくらいすればよかったかな。三木くん、可愛かったし」  ニヤけた風な声で言われて、冷えていた頬が一気に熱くなった。 「な…、ば…っ」  思わず両手で口を押さえると、正面で、もう堪えきれないって感じの笑い声が爆発した。 「……っ、帰る!」  緩んだマフラーを胸の前で掴むようにして立ち上がる。駆け出したいけど、そうするには暗すぎた。手探りでのろのろ部屋を出ていく背中に、飄々とした声がかかる。 「気をつけてね。あと、そのマフラー、長すぎない?」 「うるさいっ」  怒鳴った瞬間、マフラーの端を踏んでしまい、俺は盛大にコケた。
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