つめたいひと

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 翌日、土曜日だというのにやたら早くに目が覚めてしまった。ホシノさんのせいでよく眠れなかったのだ。ほんと、俺を恥ずかしがらせるのだけは上手いよな、あの人は。  ───キスくらいすればよかったかな。三木くん、可愛かったし  そんな台詞と、唇が触れそうなくらいのドアップを何度も思い出しては、一人で焦ってしまう。俺だって健康な男子高校生なんだから、そんなこと言われたら、ちょっとドキッとしちゃうだろうが。それに、ホシノさんは男だけど綺麗だし…いや、俺はそういう趣味じゃないけども。  本当になんかされるのかと思った。からかわれただけなのに。  なんか雰囲気に飲まれたって言うか、昨日の俺はちょっとおかしかったんだ。本気で食べられる気がしたし、それを拒もうともしなかった。自分が食べられてるところが観たいだなんて、今は全然そんなこと思わないのに。なんと言うか、まるでなにかに魅入られたみたいになって……なにかって、ホシノさんか? それじゃあホシノさんが本当に人間以外のなにかみたいじゃないか。 「いやいや、ないない、そんなことは」  あれは、ホシノさんが俺にそう思い込ませるために、なんかそういうことをしたんだろう。具体的にどういうことなんだか解んないけど、あの時間の薄暗さや冷気を利用して、話し方と動作で妖しい感じに演出したんじゃないかって。舞台設定が整ってたから、ああなったんだと考えられないこともない。まんまとヤツの術中にハマったわけだ。  それにしても、あのとき製氷機から音が鳴らなかったらどうなってたんだろう。なんかえっちいことでもされてたのかな、俺。いや、魂食べられるよりはあり得そうな話だけど、俺では対象にならないだろ。洗面台の前で一人赤くなったりしょげたりしながらそんなことを考え、冷たい水で顔を洗った。  早めの朝食をとって、それを片付けた頃にようやく朝陽が射し込んできた。バイトは午後からだし、午前中は勉強するとしても、その前に家事を片付けとくか。洗濯回して干しといて、ついでに布団も干そう。少し早いけど、こたつ布団も出すか。  諸々を干すために俺はベランダに続く窓を開けた。早朝の風は予想以上に冷たく、部屋に戻りたい気持ちを抑えて外に出る。抱えた布団をベランダの柵に広げていると、下から聞き覚えのある声がした。 「あら、シマちゃんたら、またそんな寒そうな格好で」  一階のおばあちゃん、吉田さんだ。彼女もベランダに出ているらしい。寒そうな、ということは、話しかけている相手はあの人か。 「別に寒くないよ。…元気そうだね」  やっぱりホシノさんだ。吉田さんには“シマちゃん”と呼ばれているのか。どんな経緯でそう呼ばれてるのか知らないけど、絶対本名からじゃないって気がする。  下から声がするってことは、中庭にいるんだな。珍しい。普段あんまり外には出てこないのに。  このアパートは敷地内に大家さんの自宅があり、向かい合わせに立った建物の間に、中庭と呼ばれているスペースがある。門から入ってすぐにあるのに、住人がみんなここを“中庭”と呼ぶのは、そんな建物の位置関係のためだ。ちなみに、大家さんちの庭は大家さんの自宅の向こう側、中庭とは反対の位置にある。  吉田さんちは真下じゃないから大丈夫かもしれないけど、なんとなく見つかりたくなくて、俺は布団の影になるようにしゃがみこんだ。でも部屋に引っ込む気にもなれなくて、そのまま聞き耳を立ててしまう。 「そうねえ、今のところは大丈夫そうねえ」  いつも通りのゆったりした口調で吉田さんは答えた。  確か二人いる息子さん達はそれぞれ別のとこに住んでて、何年か前に旦那さんが亡くなってからは一人で暮らしているはずだ。おっとりしてるのに芯の強い人で、「気を遣わせたくないから」という理由で、息子さん達からの同居をずっと断っているらしい。お孫さん達が俺よりちょっと年下くらいだとも聞いた。孫と重なるってわけでもないんだろうけど、普段からなにかと俺を気にかけてくれている。 「終活っていうのは順調かい?」  ホシノさんが作物の成長具合でも訊くみたいに言った。あまり抑揚のない冷たい声なのは、俺以外に対しても同じであるらしい。 「ええええ、いつお迎えが来ても平気よぅ。この歳になると、さっぱりしたものよねえ」  ゆったりと楽しそうに、吉田さんは言った。花の咲くのを待ってるかのような声色だ。 「そうかあ。私は見守るしかないけど、未練なく逝けるのならいいよねえ」  あいつ、お年寄りになんて話してんだよ。吉田さんも嫌がれよ、ほんとに人がいいんだから。  明日ホシノさんに会ったら文句を言ってやろう。そう心に決めつつ部屋に戻った。  吉田さんの訃報を聞いたのは、次の日の朝早くだった。
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