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その夜、私はツクヨミ小道に行くのをやめた。日中罵りを受けていた彼に自分の金をひけらかす気にはなれなかったし、行ったとしてもツクヨミさんには会えないだろうと思った。
次に会えたときには、私は部活動を引退していた。県大会で悔しくも敗退してから、一ヶ月近くが経っていた。
受験シーズンに突入する冬の始まり。ツクヨミさんと歩いた最後の帰り道は、半月夜だった。
「ツクヨミさん?」
月明かりを浴びる背中に問いかければ、やはり彼は足を止めて振り向いてくれた。
「やあ」
以前と何ら変わらない挨拶に始まって、私たちは無言のまま歩き出した。楽譜を持ち歩く必要がなくなったので、カタカタ、はもうない。ペチペチ、というサンダルの音だけが粗いコンクリートに弾かれ、澄んだ空気に溶けていく。
やがて裏参道に続く杉の根片に着いた。そこがツクヨミ小道の終わりだった。
一度、私は諦めた思いで言った。
「ツクヨミさんは私の名前を知らなかった」
「うん」
「だから心地よかった」
学校にいる私でも、家の私でもない私。私はそんな自分が欲しかった。私の知らないまっさらな少女の像を作るのに、普段の名前は不要だった。
常々何であれ、役を演じるためには一つの皮を脱ぎ捨てなくてはならない。
私は自分が望む上演を行うために、場所にツクヨミ小道を選び、自分の名前を捨て、逆に彼には名前を与えた。
私の言葉に、ツクヨミさんは同意した。
「僕もだよ」
共鳴しつつも、彼は私と反対の論を述べた。
「君に与えられたツクヨミという役は楽しかった。月光のベールを一枚上に被っただけで、本当に神様になったかのような万能感があった。心に鎧をまとえた」
老杉の影を躱し、月の光が絶えず降り注いでいた。半分が欠けても、月は不平を言わない。優しく無垢に輝いている。
「仮の姿を持てたことは、昼間の情けない僕にとっての救いだった」
彼は小さく鼻をすすった。私は内心身構えたが、静かな水の明鏡からは何もこぼれなかった。彼はコンビニ袋を持たない方の腕を、やんわりと持ち上げた。
「ここが僕の家なんだ。月でも神社でもなくて、ごめんね」
力ない指はツクヨミ小道の角にある、何の変哲もない一軒家の、何の変哲もない表札を指していた。そこには八画で済むありがちな苗字が彫られていた。
私は束の間うつむいてから、再び顔を上げた。
「ほんとに仮の姿だったのかな」
言いながら、目前のツクヨミさんに昼間の彼を重ね合わせてみた。型崩れということはないと思う。
「月の下でしか、ツクヨミさんではいられない?」
「いられないよ。特別だったんだ」
ツクヨミさんは即答した。彼は濡れた目を細め、私が欲しいのとは別の言葉を続けた。
「僕はもう、君の名前を知ってしまった。神様が一私人の名前を知るなんて、それは大変なことなんだよ。君のこの先の運命をねじ曲げてしまうほど」
今までで一番神様らしいことを言ったな、と頭の端で思いながら、私は胸に広がる苦みを噛み締めた。
「そっか」
きっと私の知らない理があるのだ。人間の私では、中学生の私では分からない道理が。
「ありがとう。バイバイ、ツクヨミさん」
口の端を無理やり引き上げて、私は大人くさい彼から顔を逸らした。
「さようなら。気を付けて」
彼は続けて締めくくった。
「元気で」
ツクヨミ小道を一歩出ると、夜が重く垂れ下がっていた。
いくら耳を澄ましてもサンダルの音は聞こえてこなかった。主旋律はとうに途切れている。
私は先細りしていく月影を引きずって、どこまでも歩いていった。
月の満ち欠けが二十と一回。寸分の狂いもなく周ったところで、私とツクヨミさんの関係は終わりを告げたのだった。
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