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本編
ミカヅキは泣くように笑っていた。
二十歳の母になるのかもしれない、と言って。
僕はグラスの表面に付着した水滴を指で拭った。
カラン、カラン。
ミカヅキが頼んだアイスコーヒーの氷たちが鳴いた。
僕はそれでも顔を上げなかった。
顔を上げたら、ミカヅキの目を見なくてはいけなくなるから。
だから、また、グラスをつたう水滴を拭う。
先ほどまでその中にあったカフェオレはもう既になくなっている。
冷たくて、寂しくて、切ないような水滴は、まるでミカヅキの涙みたいで。
当の本人は一滴も流していないというのに、僕はまるでミカヅキの涙を拭っているような錯覚に陥る。
「ねぇ、どうしたらいい」
ミカヅキは水滴ばかりに視線をやる僕にしびれを切らしたのか、そう問うたと思えば、僕の手の平に彼女の手の平を重ねてきた。
どきり。
不穏な音が僕の胸を占拠した。
あぁ、駄目だ。根拠もなくそう思った。
彼女の少し冷たい手の平が僕を包む。
僕は彼女にやられたのだ。完全なる敗北に、僕は顔を上げるしかなかった。
冷たい目をしたミカヅキが僕を見ていた。
何かを言うこともなしに、ただ僕の瞳ばかりを見つめる。
僕が何も答えないので、ミカヅキはもう一度問う。
「ねぇ、どうしたらいいの」
「……知らないよ、馬鹿」
僕はそれだけを呟いて、席を立つ。
くしゃくしゃに丸まった千円札を机の上に置いて、そのまま喫茶店を出た。
慌てたようにミカヅキが立ちあがって僕の腕を掴んだ。
彼女は悲痛な声で、
「どこに、行くの」
僕の腕に添えられた、震えるその手を僕は躊躇なく外す。
「僕には僕の世界があるんだよ、ミカヅキ。だから行かなくちゃいけない」
さよならだ。
最後の一言は虚空に彷徨った。
喫茶店のベルが鳴って、僕とミカヅキの物語は終わりを告げる。
最後の最後、ミカヅキの嗚咽を僕は背中で聞いたような気がするが、確かではない。
店を出て、ふらりふらりと夕刻の街を漂う。
まるで迷子の海月のように、ふらり、ふらり、と。
ミカヅキの紅い唇ばかりを思い出す。
妖艶なその動きに、何度僕は惑わされたことだろうか。
いつも悲しそうに弧を描くその紅い隆起線に、僕は無秩序な世界ばかりを夢見ていたのだ。
彼女はいつだってか弱い人だった。
それは時に、醜ささえも感じさせるほどに。
とある夜の下、僕たちは生まれたままの姿で白いシーツの海に揺蕩っていた。
ミカヅキはいつもみたいに緩く笑って、枕元にあるお気に入りのシガレットケースに手を伸ばした。
ゆうるりとした動作で彼女の指が白い煙草を操る。
彼女の手から、ぽとりとシーツの中に落とされたヴィヴィアンウエストのシガレットケースに誘われるように、僕の腕も伸びていく。
ちゃちな炎をその可憐な指先で操る彼女を横目に、僕は一本の煙草を銜えた。
彼女の瞳が僕を誘うので、僕は微睡の中、彼女の口元に映える小さな光に顔を近づける。
僕の煙草に彼女の微かな光が移る。
僕たちは瞳と瞳を混じり合わせて、二本の煙草でキスをした。
どこか煙たいようなほろ苦いような、そんな味がした。
苦しみよりも悲しみが、切なさよりも愛おしさが、僕の口内に散りばめられた。
ふと我に返って、辺りを見渡す。
どうやら人は意識がなくともきちんと帰り路を歩めるようだ。
帰省本能がそうさせるというのなら、やはり僕のあるべき場所は彼女の隣ではなかったのだ。
ゆっくりと紺青色に染まり替わってゆく空を見上げた。
たぶん、きっと、あのシガーキスの日に出来た子なのだろう。
不思議なことに確信をもってそう思っている自分がいる。
僕は懐から携帯電話を取り出して、最後の言葉をミカヅキに送った。
「子どもの名前はシガーキスが良いと思う」
それから、僕の足は路地裏に向かった。
電源の落とされた携帯電話の画面は真っ黒なままだ。
それが途轍もなく、突然に哀しい。
路地裏の中、どす黒く濁った溝に僕は希望を託した。
「さようなら」
先ほど言えなかったミカヅキへの懺悔を囁いて、僕は真っ暗な電子機器をその溝に投げ捨てた。
仕方がないのだ。
僕は君の前ではどうしたって無力なのだから。
言い訳だけが今の僕を生かす理由だった。
見慣れた住宅街が目に入る頃には、もうすっかり世界は夜になっていた。
朧げに闇夜に浮かぶ三日月を視界の隅に捉えるも、僕は知らない振りをした。
たぶん、これからはもうずっと、そうやって生きていくのだろう。
漠然とした恐怖と罪悪感が僕を襲う。
でも、それこそが、誰かを見捨てるということなのだ。
同じような家々の灯りの一つに僕の帰る場所があった。
何も知らない妻と子どもが待っている。
無垢な天使たちは僕に安寧の日々を与えてくれる。退屈で秩序正しい生活と幸福を。
それに満足できなかった僕がいた。
そんな毎日に嫌気が差したとき、僕はミカヅキに出会った。
若い彼女は、どこか儚さを身に纏っていた。きっかけはそれで十分だった。
橙色の温かい幸福を象徴させるような光が洩れる玄関の扉を開けながら、僕は彼女のことを想った。
これが彼女を想う本当の最後だと知っていた。
恐らく彼女は今頃、同じ年頃の彼氏の胸の中にいることだろう。
嘆き甘え、彼女は授かった命と同時に彼を得るのだ。
そうだ。
いなくなったのは、僕ではなくあの子の方だ。
うら若き彼らに幸多からん事を。
そうして僕は、窮屈な毎日に舞い戻るのだ
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