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潮波
慣れない、ぎこちない動きで、向かい風へ岩場を進む。海へ、進んでいく。
子供の頃だったなら、アスレチック程度にしか映らなかった岩肌が、この歳になるとまるで駄目である。日中は座り仕事、家に帰れば布団でケータイ。だからかこの潮風も、若干鬱陶しい。嗅ぎ慣れない、居間からは漂わない磯の匂いが、自然の中から、自由から離れたこの身に嫌味の様に絡み付く。
岩肌をどうにか飛び飛び進んで、ギリギリ波に当てられない、と思われる淵に辿り着く。座る。途端に波飛沫がバシャリと上がり、容赦無くズボンを濡らして行った。慌てて引き返して、また安全地帯のはずな此処に腰を下ろす。
全くもって、飽きないのである。いい匂いだ。魚を釣るでもなく、磯遊びを楽しむでもなく、岩に反射してバシャバシャ響く音を楽しみながら、遠くから打ち寄せて来る音を感じながら、ただただ風に打たれて座っている。気持ちがいい。出来ればこのまま横になりたいが、高波は突然訪れるという。仕方なし、ぼうっと水平線に目を向ける。
限られた時間の中で、生きられる時間の中で、唯一凄いと思うものが海である。人の魂は海へ帰るのだと古人は言った。言い伝えられたそれは、いつの間にやら天に召される形となったが、私は海説を信じている。凄いのだ。船があれば走れるが、飛行機があれば超えられるのだが、圧倒的な存在感。人類なんて、虫ケラである。空色の雲が風に押されて伸びている。日差しが乱れて海水へ浮かぶ。神秘だ、そして揺かごだ。私はこのまま眠りたい。
喧騒から、軋轢から、人間達の巣窟から逃げ出して、排気ガスの無い、花粉の無い、この謎に包まれた膨大な神秘に身を投げたい。一つに成ってしまえたら、きっと泳ごう。空も飛ぼう。雨雲と海を行き来して、塵よりもっと粉々の、目には見えない粒子と成って、この潮風に抱かれていたい。
そろそろ音が変わってきた。文字通り、潮時であろう。水嵩が増す。立ち上がる。
やっとこさ見付けた居場所を後にして、再び岩肌をぎこちなく降りる。何処から発生しているのやら、私には強過ぎる潮の風が、やたらと強く背中を押した。
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