1:ふたたび

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1:ふたたび

 もうすぐ、夏が終わる。  八月ももう終わろうかというこの時期は、去年までは憂鬱さをもたらすものだったが、無事大学生になった今の僕にとってはまだ夏休みの半ばでしかない。有り余る休みを利用して、僕はバイトで貯めたお金でとある片田舎の山村を訪れていた。かつては父方の祖父母が住んでいた場所だ。  ここに来るのは幼稚園児だったとき以来になる。というのも、両親がその頃に離婚し、僕は母に引き取られたので、それ以降ここに来ることもなくなってしまったのである。その何年か後に、祖父母はどちらも亡くなったらしい。  そういうわけで実のところ、明確な目的があってこの土地へ来たわけではない。ただ何となく一人旅をしようと思い立ち、小さい頃に毎年訪れていたこの村の雰囲気を漠然と覚えていたので、その懐かしさに浸ろうと思ってここを目的地に据えただけだ。  地名だけは辛うじて覚えていたので、インターネットで路線を検索し、電車を乗り継ぎ、バスにも乗り、地図を眺めながら歩き、ようやく村まで辿り着いた。情報技術が発達していくら経路が分かったとしても、このレベルの山奥となると実際の移動には未だにこれだけの困難が伴うのかと、少し恨めしい気持ちになった。  顔すらはっきりと覚えていない、もはや他人同然の父だが、この村を飛び出して都会に行こうと思ったその気持ちには、息子として心から共感できた。見渡す限り、田んぼ、田んぼ、田んぼ。たまに民家。そしてまた田んぼ。旧き良き田園風景ではあるのだが、バブル真っ盛りの当時においては、若者があえてここに留まる理由はなかっただろう。平成を丸ごと過ぎた今、そうして若者が流出したことが大問題に発展してしまっているわけだが。  ……などと大学生らしく一丁前に社会問題を考えているうちに、宿泊させてもらう民宿に着いた。要するにたんなる広めの民家で、お金を払えば風呂と料理と寝床を提供するというくらいの、文字通りの民宿だ。簡素な鍵しかない戸を叩くと、いかにも田舎の老人らしい柔らかな笑みを湛えるおばあちゃんに出迎えられた。  チェックイン――という洋物の単語が全く似合わない雰囲気だが――を済ませ、畳敷きの部屋でごろんと寝転がった途端に、まだ到着しただけだというのにどっと疲れが押し寄せてきて、い草の香りに包まれながら僕はゆったりとまどろんでいった。 〜〜〜  夢の中で、僕は子どもだった。まだこの村に毎年通っていた頃の小さな体をめいっぱい使って、畦道や山道を走っている。  場面は曖昧としてつながりが不明瞭だったが、走る僕の隣には必ず一人の女の子がいた。その子は幼い僕よりもずっと年上で、無邪気に走る僕にニコニコしながらついてきてくれる。  いつの間にか、彼女は正面にいた。そのいたずらっぽい笑顔をこちらに向けて、その両手で優しく僕の頰を挟んで。  そして、彼女は言った。 「やっと帰ってきてくれたね」 〜〜〜  目を覚ますと、い草の香りに混じって、甘い匂いがした。どこか懐かしく、しかしどこで嗅いだことがあるのか分からない。わずかな疑問は覚醒した瞬間から急速に駆逐され、虚無に吸い込まれる。少し首を傾けて窓の外を見ると、すでに夕焼けが空を染め上げていた。  畳にじかに寝ていたために、頰に少し跡がついてしまっている。寝転がったままガタガタした頰を撫でていると、視界に人の脚のようなものが見えて、半分だけ開いていた目を思わず見開く。  それは見間違いでも何でもなく、確かに人間の裸足の両脚だ。何か他のことを考える前に、僕の視線は自然とその上、脚の持ち主の顔を捉えていた。  そこに立っていたのは、間違いなく、たった今僕の夢に出演していた少女だった。 「おはよ、アキトくん」
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