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「ありがとうございます」  立ち上がり、コップを受け取る。香りから察するにココアのようだった。「コーヒーよりも熱いから、ちゃんと冷ましながら飲んでくれよ」  コーヒーは一度フィルターを通っているので、ある程度温度が下がっていたようだが、鍋からじかに移したココアは、なるほど、湯気が目いっぱい立っている。さっきの調子で飲み込んだら、すぐにやけどすることだろう。 もう一つのコップは、てっきり自分も飲むのだろうかと思っていたが、なかなか口をつけようとしない。  冷めますよ、と言うのも余計なお世話だろうかと思っていると、顔に出たのだろうか、 「冷ましてるから、いいんだ」  と言われる。 「いつもなら、匂いを嗅ぎつけて飛んでくるのに。あんたが緊張してるから、空気がぴりぴりしてんのかもな」  などと言う。犬か? と思っていると、やがて男の子が現れた。 最近子供と関わる機会があまりないので、どれくらいの年なのだかよくわからないが、幼稚園に行く年齢には達しているように見えた。  その子は僕をじっとみると、にっと笑った。笑い方がマスターとよく似ている。  彼はココアを手に取ると、テーブル席に座った。ココアを美味しそうにすすり、満足げにマスターに目配せした。  半分くらい飲んだところで、椅子から降りて、マスターの服の袖を引っ張る。 「なんだ、また饅頭が欲しいのか。母ちゃんには内緒だぞ」  マスターが戸棚に手を伸ばすと、子供は再び袖をぐいぐいと引っ張り、首を横に振る。 「じゃあ、なんだっていうんだ? チョコレートか?」  子供は黙ったまま、CD置き場を指さした。 「ああ、あれか。わかったよ」  マスターはそう言うと、CDをいったん停止させ、棚から取り出したCDをかけた。童謡だろうかと思ったら、それも同じような系統の音楽だった。僕には違いはわからないが、子供にはわかるのだろう、音楽に合わせて楽しそうに体をゆすり始めた。 「この子、ずいぶんと恥ずかしがり屋なんですね」 「そうか?」 「人見知りして、さっきから一言も話さないじゃないですか」 一瞬マスターの表情が曇った。  子供は本棚の一番下から厚めの本を取り出して、しきりにページをめくっている。外国の華やかな色の鳥がたくさん載っている図鑑だった。  その様子を見ているうちにはっとした。この子は口がきけないのだ。  いつもどうでもいいことばかりに気を使っているくせに、肝心なことには全然気が利かない。自分の頭をたたきたくなったが、今更そんなことしても、後の祭りだ。 「おい、そろそろ時間じゃないのか?」  やがてマスターが、その子が好きだと思われるテレビ番組の名を口にすると、彼はぱっと顔をあげ、さーっと走ってドアの向こうへ消えていった。 「ぼうずのことなら気にすんなよ。生まれつきじゃないんだ」 「では、なんで……?」 「色々あってな。一時的なものなんだ。そのうち治る」  それ以上は何も訊くな、という強い気配が漂った。気圧されて、どうしてよいかわからなくなる。とりあえず、もらったココアをできるだけゆっくりと啜った。 「あの、何で喫茶店をやろうと思ったんですか?」  話すことが何もないのも気まずいので、とりあえず思いついた質問をしてみる。 「ああ、喫茶店をやるのが親の夢だったもんでな。場所や道具の用意があったから、まあ俺がやってもいいかな、と」 「はあ」 「何か不満でも?」 「なんだか、けっこう簡単なんですね」 「何が?」 「仕事を選ぶのって」 「はは、あんた達の方が簡単じゃないのか? コンビニで働こうが、喫茶店で働こうが、アルバイトならどこでも雇ってくれるだろう」 「僕は、バイトしたことないんで」 「ああ、そう」  マスターはつまらなそうにそう言うと、さっきのココアの鍋の片付けにかかる。そろそろ僕も帰った方がよさそうだ。でも、どこへ?  家か、学校か。どのみち帰り着くところはそのどちらかしかない。ぶらぶらしようにも、ろくにお金も持っていない。 「そういえば、前の職場でコピーを取っていたときに決めたんだっけかな」  一瞬何の話をされているかよくわからなかったが、喫茶店を始めたきっかけのことを話しているのだと気づく。 「コピーなんて、それまでも何度もとってたんだけどよ、そのときは全部で三十ページの書類を五十部コピーしてたんだ。そういう日に限ってアルバイトが休みでな。そんなに大量に自分でコピーを取るのは初めてだった。全く同じ書類が何枚も何枚も出てくるのをぼーっとつっ立って見てるうちに、俺の人生なんなんだろうな、とふと思った。まあ、誰でも時々思うことだよな。でもその時は、何故だかその数分のうちに、これから先もずっとこんなことしてんなら、コーヒーでも淹れてるほうがましだな、と思ったんだ」  返事のしようがなくて、曖昧に頷く。特に働いた経験もない僕には、なんだかよくわからない話だが、さっきみたいに「簡単なんですね」などと気軽に言うのはためらわれた。 「ま、かみさんも働いてるからなんとかなってんだけどな。で、あんたは?」 「僕は……?」 88833627-29a8-4f5a-b143-b280778e261d
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