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エピローグ
その次の日、あんなにたくさん雨が降ったのに、井鳥川の水は落ち着いたものだった。あの大量の水は一体どこへ流れたんだろうって思う。
俺は朝から井鳥川の石段を下りた。バスの時間にはまだ早い。早起きが苦手な俺だけれど、今日はどうしても早くここに来たかったんだ。
石段の中ほどに、ここまで水が来たのかなと思える泥汚れがあった。あのまま雨が降り続けたら危ないところだったのかもしれない。
あの増水で蛙の神様がどうなったのかが気になった。だから俺は水が引くのを待っていた。でも――
「……ない」
薄暗い橋の下。いつもの場所に蛙の神様の石像がなかった。蛙の神様はそこにいなかった。
あの流れだ。どこかに流されてしまったとしても不思議じゃない。
流されてしまったのかな?
そう思ったら、俺は言いようのない寂しさを覚えた。あの三本足の神様にはもう会えないのかな?
それでも俺は、蛙の神様のいた場所に手を合わせた。そうして、バスの時間がやってくる。
園田のばあちゃんが、バスに揺られながら俺がスマホを見てニヤニヤしていることに気づいた。
「おやおや、カケルちゃん、彼女からかね?」
「うん、そう」
あっさりと俺が認めたから、園田のばあちゃんは拍子抜けしたみたいだった。その顔に俺は立て続けに言った。
「道添の三女だよ。可愛くて優しいんだ。そのうちばあちゃんにも紹介するな」
俺の照れを交えた話を、園田のばあちゃんがどう受け取るのかは賭けだった。嫌な顔をされるかなって心配もあった。でも、俺はもうそれでもコソコソしない。それがアキのためでもあると思うから。
そうしたら、園田のばあちゃんはへぇぇ、と妙に間延びした感想をくれた。
「道添のねぇ。時代は変わったものだねぇ。カナメさんがよく許したねぇ」
「うん。粘り勝ちかな」
「さすがだね、カケルちゃんは」
なんて、ばあちゃんは笑った。複雑な思いはもしかするとあったのかもしれないけれど、園田のばあちゃんは大らかだから。他の人たちが皆そうとは言えないんだけれど。
あの雨の後、俺は疋田村まで出かけた。アキと、アキの姉弟たちと一緒になって浸水した家の掃除を手伝った。最初はありがとうって言ってくれていた人も、俺が棚田の藤倉だって気づいたら、途端に顔つきが変わった。おざなりな礼を言って、それ以降あんまり手伝わせてくれなくなったり。
でも、そんな簡単じゃないことはわかっていて、それでも諦めたくなかったんだから、いいんだ。気長に焦らず地道に、それがなんでも願いを叶えるコツだってじいちゃんが言っていたから。
学校に着いて、いつも変わらない調子のトノの顔を見ていたら、俺は読書に忙しいトノから本をもぎ取っていた。
「トノ、聞いてほしいことがあるんだ!」
「え? あ、うん、なんだ?」
俺が勢いづきすぎて、トノが引いていた。それでも俺は一連のことをすべてトノに話したいと思ったんだ。
それは、蛙の神様のことも交えたすべて。俺が体験したことを……
トノなら笑わずに聞いてくれるんじゃないかって思えるから。授業が始まる前の数十分に俺が早口で語る内容を、トノは軽い相槌だけ打って聞いてくれた。全部語り終えた頃、トノはポツリと言った。
「蛙の神様、か……」
「うん」
ヒロが見た蛙が、実は俺が拝んでいた蛙の神様だったりするのかな、なんて思ったりもしたけれど、さすがにそんなわけはないかな?
トノは小さくうなずきながらつぶやく。
「お前はその蛙の神様に、村同士が仲良くなれますようにってお願いしたんだな?」
「したけど、それが?」
話の流れで、俺の癒しの場になっていて、そんなお祈りもしたりして、なんて言ったけれど、トノはそこに食いついた。
「いや、結果としてそうなったなと思って」
「え?」
「弟たちがいなくなって大騒ぎになったけど、皆無事で、結果的に関係は改善されたわけだろ? お前の願い通りじゃないか」
トノにそれを指摘されて、俺はようやくそこに気づいた。
そう……なのかもしれない。
呆然としている俺に、トノはさらに続けた。
「それから、彼女のピンチにお前が居合わせたのだって、その蛙の神様のところでしばらく気を失っていたからだってのも不思議だな。蛙の神様が絡んだ後、お前には何ひとつ不利なことが起こってないじゃないか」
そうだ。晩飯のトンカツを食いそびれたけれど、そんなことはアキが連れ去られることを思えばなんでもない。
ヒロを助ける時、足場は急に石の上にいるみたいに硬くて踏ん張りやすかった。本当だったらもっとぬかるでいたんじゃないのか――?
蛙の神様は、常に俺の味方だった。
「……蛙の神様は俺を助けてくれた? なんでだろ?」
すると、トノは高校生とは思えないような大人びた笑みをみせて、そうして言った。
「永い間、目立たないところにひっそりと存在していたのに、お前が思い出して訪れるようになって、蛙の神様はもしかすると、嬉しかったんじゃないか?」
人知れずひっそりとそこにいた蛙の神様。
寂しかったなんてことがあるのかな?
もし、そうだとしたら、蛙の神様が喜んでいてくれたのなら俺も嬉しい。
一方的な癒しの場にしていたけれど、蛙の神様はそんな俺の願いを叶えようとしてくれたと思ったら、なんとも言えない感謝が湧いた。
「どこに行ったのかな、蛙の神様は……」
もう、あの橋の下にはいない。今はどこにいるんだろう。
「さあな。蛙だから川を泳いで旅に出たのかもな」
なんてことをトノが冗談めかして言う。
でも、そうかもしれない。
あの蛙の神様は、三本足で器用に川を泳いで大きな海を見に行ったのかも。
いつかまた、あの川辺に戻ってきてくれるかな。
その時には、蛙の神様が繋いでくれた縁を大切にしながら過ごしている姿を見せられたらいいのに。
「そのうちにまた戻ってきてくれるのを待ってるよ」
ちょっと不思議な、雨期に起こった奇跡。
そこには、蛙の神様がいた。
《了》
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