◇7

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 家に帰ったら、やっぱり怒られた。 「遅くなるならなるで連絡しなさい!」 「そうよ! いつもより晩御飯が遅れたじゃない!」  母ちゃんと姉貴がご立腹だ。 「ス、スイマセン。ついうっかり……」  平謝りする俺に、玄関マットの上で親父が首を傾げた。 「何回かお前のスマホにかけたんだけどな、電波が届かないって」 「へ? そうなのか?」  橋の下にいた時かな? 着信なかったはず。  よくわからないけど、あそこって電波が届かないのか? 「どこで何してたの?」  アツムが無邪気に訊いてくる。  ……なんて言えばいいんだ?  蛙の神様のことは言っても馬鹿にされるだけだろうし、アキのことはややこしくなりそうだから言わない方がいい。そうなると、俺がつける嘘なんて限られてくる…… 「う、うたた寝してバス降りられなかった」  うわ、家族の目が冷たい! 「あんたって懲りない子ねぇ」 「馬鹿じゃないの?」 「どうせスマホも充電切れだろう?」 「カケル兄ちゃん、目覚まし時計カバンに入れておいたら?」  シクシク。変質者に遭遇した女子高生を助けた快挙を大っぴらにはできず、こんなしょうもない嘘をつかなくちゃいけない俺って可哀想…… 「まあいいわ。さっさとご飯済ませちゃいなさい」  やっと母ちゃんが優しいことを言ってくれた。 「うん、ごめん」  なんとか家に上がれた。手を洗って晩飯――と、そこで目が点になった。俺の皿に盛られていたのは、残り物。  ワカメの味噌汁、玉子豆腐、ホッケの塩焼き、イカと芋の煮っころがし、セロリとカニカマのサラダ、トンカツ――ひと切れ。一枚の間違いじゃない。ひと切れだ。  そう、うちの食卓に待ったはない。その時間に食卓にいなかった俺は敗者だ。  このひと切れは慈悲だ。じいちゃんかな……  兄貴はあっちに戻ったみたいだけれど、いたらこのひと切れもきっとなかった。  俺はほろ苦い気分で肉厚なトンカツのひと切れを噛み締めた。  それから風呂に入って部屋に戻ると、ベッドの上のスマホのランプが点滅していた。  ドキッとして駆け寄る。ロックを解除しようとして指先が震えた。そこでひとつ深呼吸をする。  ……落ち着け、自分。  こんなにドキドキしながら開いて迷惑メールとか、そんなオチだってある。期待のしすぎはよくない。立ち直れなくなる。  そう、これはきっとトノだ。その確率の方が高い。アキじゃなくったってガッカリなんてしない。大丈夫――よし。  俺は心を落ち着けてからロックを解除した。そうして、メールの差出人を見て口から心臓が飛び出しそうになる。  『朱希』?  マジで?  開こうか、もう少し余韻に浸ろうか。俺は部屋で一人、うろたえていた。  どうしよう、どうしよう。着信は二十分前!  風呂なんて浸かっている場合じゃなかった!  指がガクガク揺れるから、スマホの画面にポチッと当たってしまった。 「あ……」  余韻に浸る前に画面に出た。 『今日は本当にありがとう  カケルちゃんが来てくれなかったら  どうなっていたのか…  考えるだけでも怖い  でもね 怖かったけど  カケルちゃんともう一度話せて  こうしてやり取りできて嬉しいよ  あの時はカケルちゃんのことを  庇えなくてごめんなさい  嫌いなんて言ってごめんなさい  本当は嫌いなんかじゃなかったのに  本心が言えなくてごめんなさい』  アキのメールには、ありがとう以上のごめんなさいが詰まっていた。  俺がずっとあんな離れ方をしたアキを気にしていたみたいに、アキも俺のことを気にしてくれていたんだ。それを今になって知った。  良心の呵責ってヤツかな。何かすごく苦しそうだ。  だから俺は何か返さなきゃと画面に指を滑らせた。 『また来たら危ないし  あの男のこと  親とか学校にちゃんと言っておいた方が  いいんじゃないのか?  それと 昔のことはもういいよ  俺もこうやってまたアキと話せてよかった』  多くを語ると失敗しそうだ。  お、送っちゃったからもう消せない。  文章変じゃなかったよな?  頭悪そうに見えないよな?  スマホを持つ手がびっくりするくらい汗ばんでいる。このスマホ、防水加工なんだけど拭いておこう。ティッシュでスマホを丁寧にふきふき――そんなことをしていると、ぺろりん、と軽やかな音が鳴った。メールが来た!  まだ二十二時にならない。寝てないみたいだ。  メールを慌てて開く。 『あの人、前から車で近づいてくることがあって  念のためにナンバー控えてあるの  こんなことまでしてくると思わなかったけど…  でも カケルちゃんが助けてくれたこと  言ったら迷惑になるかな?  うちの家とカケルちゃんの家は  昔から仲が良くないけど…』  前からストーキングされていたのか?  可愛いのはいいことだと思うけれど、大変でもあるんだな……  うちの姉貴やアキの姉ちゃんなら一人で撃退しそうだけれど。 『それならよかった  夜道は気をつけてな  俺のことは気にしなくていいから  必要なら証言もするし  気軽に言ってくれたらいいよ』  アキが気にするのは、俺がわざわざ道添家の子を助けたって家族に言われると思うからかな。でも、あんなところで家の確執とか持ち出してスルーするようなヤツは、人としてどうかと思う。  道添の名前を聞いていい顔はしないかもしれないけれど、女の子を護ったって事実に対しては怒られたりしないはず。  アキからの返信がもう一度来た。 『ありがとう  カケルちゃん、こんなことを書いて  迷惑だったらごめんね  もしよければもう一度だけ  わたしと会ってほしいの  ずっと言えなかったことがあって  それが今まで気がかりで…  勝手だってわかってる  カケルちゃんが嫌だって言えば  もう言わないから  最後に一度だけお願いしてもいいかな』  スマホを持つ手が震えた。思わず目を擦る。  それでも、メールの文字は変わらなかった。見間違いでもない。  アキが俺に会いたいって? 本気で?  七年間、俺だって会いたかった。でも、昔みたいに親しくはできなかった。それはアキが俺を嫌いになったからだって思っていた。それが、実はそうじゃなかった。  それを知れただけでも俺には嬉しいことだったのに、もう一度会って言いたいことがあるって。  ……いや、最後って書いてある。次がない。  変に喜ぶと駄目だ。冷静にならないと。  えっと、なんて返そう?  女の子ってなんて言うと喜ぶんだっけ?  そんなの知るわけないし。知っていたら今頃彼女の一人くらいいるし。  腹芸はできない。ここはストレートに行くしかない。 『いいけど 最後って?  どっか行くの?』  素っ気ないかなぁ?  でもゴテゴテするにも、何を書いていいのかわからない。返信が遅くなるよりはいいかな。  送信した。返事……来るよな?  ここで切れたらどうしていいか困るし。  そうしたら、すぐさま返信が来た。 『最後って 何回も嫌かと思って  深い意味はなかったんだけど…』 『そっか  じゃあいつがいい?』 『学校ない日の方がいい?』 『今度の土曜日とかは?』 『うん 大丈夫  午前十時くらいでいいかな?  昔遊んだ橋の下で待ってる』 『わかった  絶対行くから』 『ありがとう  おやすみ』 『おやすみ  またな』  最後の返信を終えて、それから俺はもう一度最初からメールを読み返した。  変なこと書いてないよな?  感じ悪いって思われてないよな?  字、間違えてないよな? 文章おかしくないよな?  頭悪いなとか思われていたら泣く。  七回くらい読み返して、ようやく俺はスマホから手を離した。画面が暗くなる。  そのままベッドに仰向けに倒れ込んだ。  ――橋の下かぁ。  小さい頃に戻ったみたいだ。またあの橋の下、川のそばでアキに会えるなんて。  顔がにやける。ふやける。これ、夢じゃないよな?  自分のほっぺたをつねるっていうベタな行動に出た俺だけど、いいんだ、誰も見てないから。声は出さないように気をつけつつ、今日はにやけたまま眠りにつく。  今日はいい日だな。たまたまあの時間、土手に居合わせたのも何かの縁だ。  幸せな心地でベッドの上に転がって目を閉じたけれど、そこでふと思い当たった。  ――たまたま?  たまたまあの時間に橋のそばにいた。でもそれって、俺が四十分くらい橋の下で伸びていたせいじゃないのか?  本当ならあの時間、俺はとっくに家にいたはずだ。そうして揚げたてのトンカツを、兄弟たちをけん制しながら奪って食べていたんじゃないのか。  これって、たまたま? 偶然?  そんなことってあるのか?  浮かれていた心が急に冷えた。これってどういうことだろう。  いや、ただの考えすぎで、やっぱり偶然なのかもしれない。だって、そんなの説明がつかない。原因不明の現象で俺が意識を失っていて、そのおかげでアキのピンチに居合わせたなんてこと、偶然以外に説明できないじゃないか。  考えすぎだ、きっと……  そう結論づけるしかなかった。  ただ、アキとの待ち合わせは橋の下。またあそこに近づく。  蛙の神様がいる、あそこに。  怖いっていうか、ちょっと不気味。どうしようか、アキにやっぱり場所を変えてほしいって頼もうかな?  さっきまでのにやけ面がどこかに吹き飛んだ俺は、体を小さく丸めて左右に転がった。  でも――  アキのピンチに間に合って、アキと話せて、連絡先も交換できた。メールもした。次に会う約束もした。  これって、悪いことじゃないよな?  俺にとって幸運って呼べる出来事なんじゃないか。あのまま家に帰っていたら、トンカツは美味しかったかもしれないけれど、アキはどうなっていたか――  最悪、連れ去られて二度と会えないなんてことになっていたかもしれない。それをテレビのニュースで知るとか、考えただけでも嫌だ。  意識がなくなるなんて怖いし嫌だったけれど、そう考えたらあれは俺とアキにとっての幸運だった。……蛙の神様のご加護?  もしかして、そうなのか?  蛙の神様がアキを助けてくれたのかな?  そう考える方がいい。それならまた近いうちに一度お礼を言いに行かなくちゃいけないかな。お供えとかいるのかな? 蛙が喜ぶものってなんだ? ……ハエとか?  神様にハエは駄目だよな。  なんて、俺の思考が微妙な方向へずれ始めてすぐ、いつの間にか寝ていた。何かと精神的に忙しい一日だった……
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