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満月の夜は年に12回しかない。いや、12回ある。
僕には大切な女性がいる。僕たちは、満月の夜に出会った。月明かりの下で。
僕は自宅からしばらく歩いたところにある川を橋の上から見つめていた。もう歩き疲れた。そして、茫然と考えていた。
「ここから飛び降りれば、僕はどうなるのだろう・・・?」
満点の満月の夜。
その時、後ろからかすかな声が聞こえた。
「どうしたのですか?」
僕を心配そうに見つめる美しい女性の姿があった。
これが、彼女との出会いだ。
でも、僕は彼女のことをあまりよく知らない。彼女の名前すら僕は知らない。きっと彼女も僕の名前を知らない。
だから僕は彼女のことを勝手にこう呼んでいる。ビーナス。
満月の夜に彼女はやってくる。真っ暗な闇の中に満月だけ輝く夜に。
「ねえ、いるのかい?ビーナス。」呼びかけると彼女はいつも現れる。白い影みたいな姿で。
「君はきれいだ。」
「ありがとう。あなた、約束を守ってくれた?」
「もちろんだよ。君のことを誰にも話さない、って約束だろ。守っているよ。安心して。」
「よかったわ。これで私たち、次の満月にも会えるわね。いつも、あなたのことばかり考えているわ。ごめんなさい、月の明かりが眩しすぎるわ。まだ体調がよくないの。皆がいなくなった私のことを探し出してもいけないし・・・。あなたにまた会えることを楽しみにしているわ。私、もう行かなきゃ・・・。」
そう言って、ビーナスは行ってしまった。まるで彼女は影のようだった。
僕の体は自然とビーナスを追うように前のめりになる。「ビーナス・・・!ビーナス・・・!」いくら呼んでも彼女はもう戻ってこない。次の満月の夜まで。分かっている。
自然と涙があふれた。会いたいのに会うことが出来ない辛さ。ありきたりな言葉だが、こんな思いをするくらいなら最初から出会わなければよかった。
僕の気持ちは昔読んだシェイクスピアの悲劇の一節の中にあった。
「ビーナス、なぜ君はビーナスなのだ・・・。」
男らしくないが、僕はいつもビーナスのために涙を流している。こっそりと。
そしていつもこう思う。彼女と一緒にいられる一生分の時間を今日使ってしまいたかった。たとえもう二度と会えなくなったとしても。
諦めきれない気持ちを紛らわすための手段として、僕はひとり歌を歌った。泣きながら。
どこで覚えたかも忘れてしまった歌。
そして、いつしかこう思うのだ。自分ではどうしようもないことに傷つくことはもうやめよう。そして無理やり心に蓋をした。
心に蓋をすることは得意だ。子供のころからよくやってきた。僕の特技なのだ。
気づけば、涙は止まっていた。
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