六、

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六、

 愛しい大地。  僕は君を元に戻す努力をしよう。  夜が更けるのを待ち、大地の家に行った。  真眼で見てみると、家族全員もう寝静まっているようだ。  黒い霧と化して大地の部屋に入り込む。堕ちた神そのものになりつつある僕は、容易(たやす)くその力を行使できた。  今は意志に従って動けるが、いずれ僕の意識は失われてしまうだろう。内側を侵食(しんしょく)し続けるものの記憶や知識が、そう教えてくれる。  この禍々(まがまが)しいものの種を、僕は無知にも大地に植え付けてしまった。責任は取らねばならない。  眠っている大地の顔は穏やかで、(よこしま)なものの気配を感じさせない。  だが、その体内で脈打つ種は一時も休むことなく暗黒を生み出している。僕が吹き込んだ黒い精気から生まれた種だ。 「大好きだよ」  僕は声にならないほど小さく(ささや)き、大地と唇を重ねた。  温かく湿った息が漏れる。  愛しい匂いがした。  かつて吹き込んだものを吸い出すのは楽な仕事じゃない。種は今や、しっかりと根を張っているのだ。  引き抜かれる苦痛を出来るだけ感じさせないように、僕は意識を集中させて一本ずつ根をころしていった。  大地の口の端から唾液が流れ、苦しげなうめきが漏れる。 ――まだ我慢して。もう少しだから。  僕は大地の顔を両手でしっかり固定して、吸う力を強めた。  種が張り巡らせていた根の最後の一本が抜けた瞬間、それは軽々と喉元を上がって来て僕の口中に収まった。 ――これでいい。  種を呑み込んで唇を離すと、大地はうっすら目を開けていた。 「そっか、海斗だったんだ」  朦朧(もうろう)としているようだが、僕には大地が何を言っているかすぐわかった。 「どうりで……蒼空とキスしても、なんか違うと思ってた」  僕の胸から熱いものがこみ上げてくる。あふれた涙で視界がぼやけた。 「ありがとな」  その言葉だけで心が満たされた気がする。  僕は涙をぬぐい、手をかざして大地のまぶたを閉じさせた。  次に目覚めた時、大地の中から僕は消え失せていることだろう。  大地は優しい顔で眠りに落ちていった。  深淵に堕ちるのは僕だけでいい。  黒い種に染められていた時の記憶は、大地を苦しめるかもしれない。  突然の変化に、黒い王を仰いでいた者たちは戸惑うに違いない。  それでも大地には蒼空がいる。  平凡な少女の姿をした癒しの神は、奇跡のように大地を護り、救ってくれることだろう。  蒼空の中の記憶も消そうと考えたが、結局そうすることは選べなかった。  「三島海斗」という幼馴染が存在しない世界に、蒼空は戸惑い、心を痛めるかもしれない。  だが彼女ならきっと、事情があったと察して状況を受け入れ、理解してくれるはずだ。  それを想像すると、いくらか救われたような気持ちになる。  黒い精気がヒトに入ると禍々しい種を生み出す、なんて。  僕は本当に何も知らなかったのだ。  今の僕には、以前とは比べものにならないほどの知識と力がある。  これから自分がどうなるかも、よくわかっている。  僕は夜空に飛び立った。  そして翼がぼろぼろになるまで飛び続け、力尽きて海に落ちた。  沈みながら死を期待したのに、何の苦痛もなく再び浮き上がった。  ほどなく陸に上がった体は、僕の意志とは関係なく動くようになり、おぞましい食物を口に運んだ。  咀嚼(そしゃく)された生臭いものが喉を下りていく。吐き出したかったが、僕の顔は満足そうに笑みを浮かべているばかりだった。  意識もだんだん薄れてきた。  これが僕の運命だったのだ。  堕ちた神の成れの果てが天上に穿(うが)った穴から手を伸ばし、生まれたての僕がたまたまそこにいた。その時から、こうなることは決まっていたのだ。 「さよなら」  深淵の底の安らかな静寂が、僕を待っている。 〜Fin〜
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