わずか五年、43,5kbの世界の中で何が起きたか。

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わずか五年、43,5kbの世界の中で何が起きたか。

運命、って言葉はまぁー便利なもので、絶対に何かしらの原因があったはずの物事をあたかも自分のせいではなかったかのように語りたいときに非常に役に立つ。 誰とも知らない何者かもわからない神様だか、流れだか、時間だか、そういうものに責任転嫁することができる。 例えば男に飢えて血眼になった女が適当な男を引っ掻けたときに「あなたと私が出会うのは運命だったのよ」なんてロマンチックなことを言うことがあるが、あたかもそれが最初から決まっていた事のように言ってみせていてその実はたまたまそこにいた男がそいつだっただけの話である。袖振り合うも多少の縁、縁なんてモノはそこらじゅうに転がっていて石ころよりも数の多いものだろうが、その石ころのひとつを拾い上げて大仰に誉めて見せているだけに過ぎない。 もともとそう特別な価値もないもの。見せびらかす役目を終えれば飽きて捨てるのが関の山だ。 てなわけで基本的に運命なんてものはそう簡単には遭遇できないものだと思っている。したがって、運命の人だの運命の出会いだのというようなトンデモ確率の偶然、砂場でダイヤモンドを採掘するような兆分の一程度の奇跡もそうは出会えないし起こらない。そう感じる出来事があったとしたら大概の場合はその根本を突き詰めるだけの気力か必要性が欠けているか、あるいはお花畑で踊っていたいか、夢見る少女でいてみたいか、まぁそんなところだろう。願望を具現化するために無理やり用いた言葉に過ぎないというのが、最終的な見解になる。 ゆえに、だ。 入学式にこの俺、千葉県在住普通の一般男子……頭痛が痛いみたいな言い方になってしまったが、ともかく掃いて捨てるほどいるホモサピエンスの雄の中の一頭である個体名 左衛門三郎緑が、小学校卒業以来恋い焦がれて想い狂った相手である 東前門むぎに出会ったこともまた、運命のように感じられて運命ではなかった。
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