1. 抜け殻

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1. 抜け殻

「結婚するからこの家出て行く事になった…今すぐってわけじゃないんだけど」 5年間ルームシェアしていた匠海(たくみ)は、とうとう俺がずっと恐れていた事を口にした。 「そうなんだ…おめでとう。早いね…付き合って1年も経ってないよね?」 「まぁ、もうすぐ30だからね…それにこのマンションの更新のタイミングもそろそろだったと思うから」 「そっか」 彼はずっと"結婚して子どもが欲しい"とごく普通の夢を抱いていた。大学を卒業してから彼には助けてもらってばかりだった。もちろん感謝しているし尊敬していたが、こんなにもあっさりと一般人の価値観に染まってしまうとは… 「マンションを解約する時のクリーニング代とかはこっちで負担するし、雅樹(まさき)は気にしなくていいから」 「いや…俺、ここに残る」 「…え?1人でここの家賃払うの?」 「俺の事は気にしなくていいから」 「…わかった。じゃ、部屋にあるものは色々処分しとくよ」 「いや、そのままでいいよ」 そのままでいいのではなく、そのままがいい。勝手な理由で出て行くのなら、最後くらいせめて俺のわがままを聞いて欲しかった。 このマンションは、元々彼の名義で借りていた為、名義を変更する"契約のまき直し"が必要だった。もちろん手続きにはいくらか費用がかかるが、それでも俺はこの家に残る事を選んだ。 4月になり、匠海は俺が働く不動産会社で物件を契約し、この家を出て行った。もちろん俺の要望通り、部屋にある家具や寝具、歯ブラシなどの生活用品は残したままだ。 俺は匠海の生活の跡が残る抜け殻のような部屋で、洗っていない彼の枕に顔を埋め、毛布に包まり、毎晩自慰に耽っては頭の中が真っ白になり、眠りにつく。 毛布やカーペットに付着した髪の毛を採取してジッパー付きの袋に大事に保管し、毎晩寝る前に眺めては何度も夢の中で彼に殺された。朝目が覚めて夢だと分かった瞬間、やるせない気持ちになりながらも、感情を殺したまま仕事をする、その繰り返しだ。 自分の行動が狂っていて気持ち悪いって事くらい分かっている。俺は同性の友人である匠海に特別な感情を抱いている。恋というよりは、それよりももっと欲深くて狂ったものだと思う。 元々俺は同性にしか恋愛感情を抱けない。男に対してなら誰にでもそのような感情を抱くという訳ではないが、世の中偏見を持つ人が多い。俺は一部の人にしかカミングアウトしていない。もちろん匠海は何も知らない。一生知らなくていい。彼にとって俺は友人の中の1人でしかない。 結婚相手を連れた匠海を内見に連れて行ったり、テーブルを挟んで説明するのは、想像以上に地獄のようだった。幸せいっぱいの彼に殺されて死んでしまえたら、俺も幸せになれるような気さえしてきた。 「…白井(しらい)の考えてる事は相変わらずよく分かんないよ」 金曜日の夜、俺は大学時代の友人である梅田と渋谷の居酒屋で飲んでいた。彼は昔組んでいたバンドのメンバーでもある。俺が同性愛者だという事、被虐な性癖を持っている事を唯一知っている人物だ。 "よく分かんない"と言っておきながらも、毎回ドン引きせずに俺の話を聞き流してくれている。人の話をちゃんと聞かないからこそ、重い話も気兼ねなくできる。そして彼は秘密を必ず守る。守るというよりかは、他人の事に無関心なだけなのかもしれないが。 「…別に共感とかは求めてないから……どうしたら忘れられるんだろ…」 まだビールを半分しか飲んでいないのに、頭がぼーっする。 「まず部屋のものを全部捨てる、引っ越す!それに尽きるよ」 酒に強い梅田は冷静に即答した。 「無理に決まってんだろ…くそ……何で俺じゃないんだよ……」 あの部屋を片付けて引っ越す事が出来れば最初から苦労しない。俺はだんだん自暴自棄になり、テーブルにうつ伏せになる。 「白井、もう帰ろう。明日も仕事なんだろ?面倒だから酔い潰れても絶対送らないよ」 このままだと俺が酔い潰れるのを察知してか、梅田は伝票を手に取り、店を出る準備をし始める。 「分かってるって…」 残ったビールを何口か飲み、俺も彼に続いて店を出る支度をする。彼と飲みに行くといつもこうだ。別に俺は酒に弱い訳ではない。…多分。 そして俺は頭が回らないまま渋谷駅まで歩き、梅田と別れる。 「じゃ、まっすぐ帰るんだよ。くれぐれも死ぬなよ」 「はいはい…」 「まっすぐ帰れ」と言われても、まだ帰る気になれず、駅から少し離れたゲームセンターに立ち寄る。何を考えるわけでもなく、クレーンゲームを気が済むまでただひたすらやるだけだ。欲しい物があるわけではないが、景品がクレーンに持ち上げられる時の感覚が癖になり、嫌な事があるとつい立ち寄ってしまう。 そして、眠気と酔いがピークに達し、俺は帰路につく。自由が丘で乗り換え、そこから何駅かして下車した。 10分程歩き、マンションの前にたどり着く。この時間になっても部屋の明かりが消えているのを目の当たりにし、この家にはもう彼がいないという事を実感する。 部屋に戻り、俺はすぐにベッドに倒れ、いつものように彼の枕に顔を埋める。こんな事を繰り返したところで彼は戻って来ない。梅田が言っていた通り、全てリセットする方がいいのかもしれない。…でも、できない。彼の存在が完全に消えてしまうのが怖い。救いようのない気持ちのまま、俺は眠りについた。
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