2. クレーンゲーム

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2. クレーンゲーム

翌日、俺は昨日の仕事着のままベッドで寝ていたようだ。 梅田と別れてからの記憶が全くない。大量のぬいぐるみが透明のビニール袋に入れられたまま床に放置されている。俺はまた酒に酔ってクレーンゲームを狂ったようにやっていたのか… そのぬいぐるみは、女性に人気なピンク色の頭巾を被ったうさぎのキャラクターで、何故だか同じものを何個も取っていたようだ。俺自身、このキャラクターは好きでも何でもない。外からでも中身が分かるような透明な袋を持って電車に乗ったと思うと、今更ながら羞恥心で頭がいっぱいになる。 シャワーを浴びながら、昨夜の事を思い出そうとするが、思い出せない。いい加減この悪い癖を何とかしたい。俺が以前使っていた部屋には今まで取った景品が大量にあり、処分できずにいる。 クレーンゲームは俺にとってのストレス発散法だ。本当は、取る側ではなく"取られる側"に回りたい。透明な箱の外から匠海にじっと見つめられながら、彼が操作するクレーンに捕まれ、何度も落とされる。そして、呆れたような冷たい表情をし、背を向けて去って行く。そんな妄想をしながら俺はいつもクレーンゲームに耽っている。欲しいものは景品ではなく、匠海の冷たい視線だ。彼とルームシェアするタイミングで禁煙を試み、何とか辞める事ができたが、クレーンゲームだけは未だに辞められない。 いつものように無個性な白いYシャツに袖を通し、家を出るのと同時に俺は感情を捨てる。2日酔いのせいで、若干頭が痛い。それでも何もなかったように仕事をする、それが社会人にとっての常識らしい。 「……白井さん、聞いてますか?」 「あ、すみません…」 隣の席の柴崎さんに呼ばれ、俺はハッとする。頭痛と眠気が限界まで達し、少しぼーっとしていた。やっぱり仕事の前日に飲むんじゃなかったと後悔する。 「大丈夫ですか?なんか今日はいつにも増して眠そうですね」 柴崎さんは心配そうに尋ねる。"いつにも増して"とは俺がいつも眠そうにしていると言いたいのだろうか。 「大丈夫です…」 「ならいいんですけど。14時から契約のお客様がいらっしゃるので、そろそろ飯にしません?白井さん、何食べたいですか?」 彼は無垢な笑顔で俺をランチに誘ってくる。その様子は毎回犬みたいだと思う。 「あ、俺はいいです。仮眠とりたいので…失礼します」 俺はいつものように誘いを断り、そそくさとオフィスを出る。彼は「また断られた〜」と悔しそうに嘆き、周りの社員がその様子を見て暖かく笑う。 柴崎さんは年齢は3つ下で、俺が入社した時の教育係で先輩にあたる。俺は今年で29歳だが、会社で働き初めてまだ1年も経っていない。明るく人当たりが良く仕事もでき、教え方も分かりやすく、彼の事は先輩として尊敬している。 しかし、職場の人と食事に行くのは、どんなに尊敬している相手だろうと気が進まない。俺にとって仕事というのは、所詮金を稼ぐ手段でしかない。休憩時間くらい、仕事の事を考えずに過ごしたい。それに、職場の人と過ごしても、仕事以外で聞きたい事も話したい事も何もない。時間の無駄だ。無論、会社の飲み会にも参加しない。 入社当初は色んな人にランチに誘われた。最初の方は気を遣って行っていたが、だんだん面倒になり、断るようになった。そして、いつの間にか誘われなくなっていた。そんな中、柴崎さんだけは何故だか今でも俺をランチに誘い続ける。明るくて負けず嫌いで粘り強い彼にとって、営業の仕事は天職だったに違いない。 俺はそんな柴崎さんとは正反対で、いつもドライな調子で、一切笑わず仕事をやっつけている。自分自身が無愛想な事くらい分かっているし、今の仕事は絶対俺には向いていないだろう。しかし、今までまともに働いていなかった俺がやっと正社員としてありつけた仕事なので、贅沢は言えない。 外で昼を済ませ、仮眠はとらずにオフィスに戻り、14時に来社する客の資料を確認する。 「白井さん、よかったらどうぞ」 向かい側の席に座っている塩山さんは色とりどりのマカロンが入った箱を差し出す。今日もキラキラしたネイルが目立つ。 「ありがとうございます。すみません、頂きます」 俺は礼を言い、ショッキングピンクのマカロンを1つ取る。 塩山さんは、同じ部署の先輩だ。彼女は俺より2つ歳下で、見た目は今時の女子だが、落ち着き払った上品な口調で話すからか、"お姉様"という呼び名がよく似合う。 塩山さんは明るい巻き髪をふわりと揺らし、柴崎さんにもマカロンの箱を差し出す。彼は「わーい!ありがとうございます!」と子どものように喜びながら、黄色いマカロンを手に取る。 そんな柴崎さんの隣で俺はマカロンをちまちまと食べながら、書類に目を通す。昼は辛い物を食べたので、甘さが染みる。 「白井さんって…マカロン似合いますね」 マカロンを食べる俺の様子を見て、塩山さんは突然謎めいた事を口にする。 「え?」 言っている事が理解できず、俺は思わず聞き返す。 丁度その時、課長の浅井さんが塩山さんのところに来て「みんなに配った?」と彼女に尋ねた。どうやらマカロンは彼が買って来たもののようだ。 「配りましたよ。丁度今、白井さんってマカロン似合いますよねって話してたところなんですよ。ね、白井さん」 塩山さんは会話の内容を浅井さんに話しながらも、最後は俺の方に振る。 「はぁ……」 話についていけず、俺は曖昧な返事をする。そんな困惑する俺の様子など気にせず、隣の柴崎さんは幸せそうにマカロンを頬張っているだけだ。 「あ〜、言われてみれば」 浅井さんは意味不明な話題を理解したようで、塩山さんに同調した。 塩山さんと浅井さんは妙に仲が良く、2人だけの世界があるように見える。浅井さんはしょっちゅう隣の塩山さんに「お腹すいた。お菓子ない?」とか「何か買ってくるものある?」とか仕事に関係ない話をしている。塩山さんの向かい側の席の俺は、嫌でもそのやり取りが視界に入る。そして、「ね、白井さん」とか「白井さんもそう思いますよね?」とか、何故かその会話に俺が巻き込まれるのが日常茶判事だ。 おそらくこの2人は付き合っている。しかし、浅井さんは結婚していて子どもがいた筈だ。となると、社内不倫を目の前で見せつけられている事になる。会社の人とは仕事以外の関わりが無い為、周りの社員がこの2人の事をどう思っているのか俺は知らない。 「14時からのお客様がお見えです」 しばらくして、事務の女性社員は14時からの客が来た旨を俺と柴崎さんに告げる。 「じゃ、行きましょうか。これで売上も上がりますね〜!」 柴崎さんは張り切った様子で客が待つブースへ向かう。彼は本当にこの仕事が好きなのだろう。俺は重い足取りで彼の後に続く。 今日担当する客は、入籍前のカップルだ。全ての審査が通ったので、契約内容の確認と各種手続きの説明をし、書類にサインをしてもらうという流れだ。 最初は宅建士である柴崎さんが、契約内容や条項などを確認していく。俺は彼の隣に座り、書類に目を通す。免許証を机の上に置き、ゆっくりと分かりやすく条項を説明する彼は専門家なのだと改めて実感する。先程子どものようにマカロンを頬張っていた人物とは思えない。 俺は不動産会社で働いていながらも、甲だとか乙だとか抵当権だとか、ややこしいワードが詰まった長ったらしい条文が苦手だ。大学の授業で少しだけ法律を勉強したが、言葉が分かりづらすぎて、単位を落としたくらいだ。 あの難解な文章を分かりやすく説明する柴崎さんを見ていると毎回感心してしまう。 ひと通り説明が終わり、柴崎さんは客に挨拶をしてオフィスへ戻って行った。俺はブースに残り、入居時の注意事項などを説明していく。 この仕事をしていると、嫌でも他人の人生の分岐点を目の当たりにする事となる。結婚、同棲、離婚、進学など理由は様々だが、最近は結婚や同棲といった幸せな理由で来社してくる客が多い気がする。人の幸せの踏み台になる事は何度も経験しているが、友人の結婚とタイミングが重なり、俺はいつもよりもやっつけ感覚で淡々と説明していたに違いない。 契約が終わり、客をエレベーターまで見送り機械的なお辞儀をする。扉が閉まるのと同時に俺はゆっくりと頭を上げ、溜め息をつく。 19時半頃、やっと仕事が終わりオフィスを出る。今日はいつもよりも疲れた。禁煙してから数年が経つが、久々に煙草を吸いたい衝動に駆られる。 学生時代からやっていたバンドが解散して俺は音楽の道を諦め、皆がよく言う"普通"の人生を歩む事を選んだ。しかし、売り専のバイトと援助交際しかしてこなかった俺は、その事実を履歴書に書くわけにもいかなかった。 唯一の夢を捨て、将来が見えなくなった俺は、売春行為に繰り出し、煙草の吸殻とビールの空き缶に囲まれた空っぽな部屋で何度も自傷行為を繰り返した。それでも、日常から音楽が消えた事によってできた心の溝は、何をしても埋まる事はなかった。 高校時代の同級生だった匠海は、そんな俺を見兼ねて詳細を聞くでもなく「一緒に暮らそう」と言ってくれた。 当然、俺は毎月の家賃を払える程生活が安定していなかった。それでも、彼は家賃を多めに払ってくれたり、正社員として採用してもらう為に、まず派遣でコールセンターの仕事をやってみる事を提案したり、何かと親身になってくれた。 俺が社会復帰できたのは、紛れもなく匠海のお陰だ。彼は学生時代からの親友であり、元々それ以上の感情は抱いていなかった。 しかし、まるで自分の事のように俺の事を心配してくれる優しさや、いつもやりがいを感じながら仕事をこなす純粋さに、いつの間にか惹かれていった。やがて、それ以上の欲望まで抱いてしまう事になるが、いつからそうなったのかは自分でも分からない。 昔の事を思い出しながら歩いていたら、いつものゲームセンターまで来ていた。煙草を我慢できても、クレーンゲームにはいつも手を出してしまう。非喫煙者の匠海はもう家にいないのだから、気を遣わず煙草を吸える筈なのに、踏み止まってしまう。1度吸うと仕事にも身体にも影響を及ぼし、取り返しがつかなくなりそうだからだ。 クレーンゲームは誰にも迷惑がかからない。俺はいつものように小銭を入れ、ゆっくりとクレーンを操作する。匠海の操るクレーンに捕まれて落とされて冷たい視線を投げられる妄想が唯一の癒しだ。気が済んだ頃にはピンクや水色のプードルのぬいぐるみを大量に取っていた。鞄の中から紙袋を取り出し、それらをしまい、店を後にした。
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