5. 辛党

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5. 辛党

「白井さん、そういえば昨日ゴスロリの女の子と歩いてましてたよね。ああいう子と付き合ってるんですね〜、意外です」 昨日俺と松村が並んで歩いているところを塩山さんに目撃されていたようだ。職場の近くだったし仕方ないと思いつつも、誰かに見られる心配を全くしていなかった自分を今更ながら責める。 繁華街から外れた通りをサラリーマンとロリータが並んで歩いていたら、そりゃ目立つに決まっている。松村は学生時代から変わらずロリータファッションだし、そんな彼女の隣を歩く事にも慣れてしまった俺の感覚が麻痺していたようだ。 「あー、あれ…キャッチに引っかかっちゃって…コスプレ喫茶の…」 説明するのも面倒で、俺は適当な嘘をつく。隣の柴崎さんは、資料を見ながら「そっか〜」と嬉しそうに呟いていて、完全に彼の世界に入り込んでいるようだ。 「え〜、あんな所にありましたっけ?ね、浅井さん」 当然、塩山さんは不思議そうにしている。そして、彼女の隣に座る浅井さんにも当然のように話題を振る。 「さぁ…でも白井くんって意外と彼女にコスプレとかさせてそう」 浅井さんは笑いながら冗談めいた発言をする。 「…それは絶対ないです」 俺は全力で否定する。 そもそも異性は恋愛対象外だし、俺はむしろコスプレをさせる側というよりかは、強要される側だった。これに関しては忘れたい黒歴史がある。 昔売り専のバイトをしていた頃、特別顔が良い訳でもない俺はほとんど指名されず、自宅で待機してばかりだった。しかしそんな中、何故だか毎回俺の事を指名してくる常連客がいた。人の事は言えないが、その客はかなり歪んだ性癖を持ったサディストで、コスプレやそれ以上に恥ずかしい格好をしての性行為を強要される事がしばしばあった。 金銭を貰う以上断る訳にはいかず、そのまま行為に及んだが、ああいったものに"性"を感じる人間の価値観は未だに理解できない。そして、着ざるを得ない側にとっては屈辱でしかなかった。 昔の事を思い出してしまい、俺は少し気分が悪くなる。 「白井さん、お昼の時間ですね」 話題に入ってくる事なくずっと資料に目を通していた柴崎さんは、いつものように俺をランチに誘っているようだ。 「あ、すみませんが、体調悪いのでご遠慮します」 俺はいつも通り適当な理由をつけて彼からの誘いを弾く。 今日も柴崎さんは悔しそうに嘆くだけかと思っていたが、彼は財布から紙切れを2枚取り出し、ニコニコしながら俺の前でヒラヒラさせる。揺れる紙切れの動きはまるで上機嫌な犬の尻尾のようだ。 「蒙古タンメンの無料券です。今日までなんですよ〜」 彼が見せてきたのは、俺がよく通っている蒙古タンメンの店の無料券だった。 基本的に職場の人と食事はしたくない。しかし、彼は無料券を持っている。普通に店に行ったらそれなりに金がかかる。貰える物はとことん貰うという、金に困っていた時からのスタンスは今でも変わらない。節約した方が良いに決まっている。毎回ランチに誘ってくる柴崎さんも1度行けば、俺と話してもつまらない事に気づき、今後は誘って来なくなるだろう。 ヒラヒラ揺れる無料券をじっと見つめていた俺は完全に蒙古タンメンの口になっていて、何とか自分を正当化させようとしていた。 「…体調悪いなら仕方ないですよね〜」 柴崎さんは意地の悪い無邪気な笑顔で無料券を財布しまう。 「…あ、大丈夫です。行けます」 俺がそう言うと、柴崎さんは嬉しそうに笑った。2人でオフィスを出る時、周りの社員はずっと俺に断られていた彼に「よかったね〜」と微笑んでいた。 昼のピークが過ぎたようで、人通りは比較的落ち着いているようだ。 「それにしても白井さん、いつも塩山さんと浅井さんに絡まれて大変ですね〜」 隣を歩く柴崎さんは、相変わらずニコニコしている。昨日この辺りで会った松村とは正反対だ。 「まぁ…適当に流してますけど」 「僕も白井さんが入社してくる前まではよく絡まれてました。ターゲットが白井さんに変わったんですね〜」 柴崎さんはそう言いながらアハハと笑う。陽の光が当たり、彼の髪は少し茶色く見える。 彼と仕事以外で話すのは初めてだった。相変わらず高いコミュニケーション能力に感心してしまう。 それから、他愛もない話をしながら道玄坂にある店を目指した。塩山さんと浅井さんはやはり付き合っているようで、周りは呆れながらも見て見ぬふりをしているらしい。そして、柴崎さんは旗の台の実家で暮らしていて、俺と同じ路線を使っているようだ。 しばらく歩き、店に到着した。昼時に行くといつも並んでいて断念していたが、今日は遅めの時間という事もあり、スムーズに入店できた。 テーブル席に向かい合わせで座り、注文する。ここの蒙古タンメンは辛さが10辛まで選べる。俺はいつも通り10辛を注文した。 「白井さんって辛い物好きですよね。カップラーメンにも一味入れてませんでした?」 「…そういや基本何でも一味かけてますね」 忙しい日の昼はカップラーメンで済ませる事があり、いつも俺は一味を大量にかけて食べていた。その様子を隣の席の柴崎さんに見られていたようだ。 しばらくして、注文していた蒙古タンメンがテーブルに運ばれてきた。真っ赤なスープが食欲をそそる。 麺を啜る度にむせそうになり、口の中に入れた瞬間に辛さが一気に広がる。そして、舌には激しい痛みが走った。ギターのエフェクトに例えると、"ファズ"だろうか。吉祥寺にそんな辛さ表記のカレー屋があったのを思い出す。 「それ、明らかに色やばいですね。味分かるんですか?」 標準な辛さを食べている柴崎さんは、この店で1番辛いものを黙々と食べる俺を見て興味津々な様子で尋ねる。 「まぁ…基本的に痛みしかないですけど、何となくは」 実際、味よりも口の中で感じる痛みの存在感の方が大きい。元々辛い物に対して耐性がある訳でもないが、何故だかこの痛覚が癖になり、気づけば何度もこの店に通ってしまう。 柴崎さんはそんな俺の返答に対して「それって美味しいんですか〜?」と笑う。 味が"美味しい"というよりかは、この痛みを噛み締める事が"美味しい"のかもしれない。そんな事を考えながら黙々と麺を啜る。そして何度もむせそうになる。 「あ、食べるの遅くてすみません…」 真っ赤なスープを全て飲み干す頃には、柴崎さんは既に食べ終わっていたようだ。基本的に職場の人とランチに行かないのは、話すのが面倒というのはもちろんだが、昔から食べる速度が周りより遅く、他人の皿の中を常に気にしながら食べるのが苦痛だからというのも理由の1つだ。しかし、食べるのに夢中になっていた俺は、彼のペースを全く気にしていなかった。 「大丈夫ですよ。スープまで全部飲み干してよく表情変えずにいられますね」 柴崎さんは「すげー」と言いながら俺の事を感心している。無表情というか、耐えていただけだ。 そして、店を出てオフィスまで歩く。柴崎さんは「午後も頑張りますか〜」と軽い調子で言う。まだ午後も仕事だと思うと、更にやる気が削がれるが、彼は変わらず笑顔で楽しそうにしている。 「…そういえば、白井さんっていつもアンビエントですよね」 「…へぇ?」 "アンビエントだ"という表現は、シューゲイザーやドリームポップ、インストの電子音楽を好んで聴く人くらいしか知らない筈だ。彼が突然その言葉を口にするので、思わず間抜けな声が出てしまった。 「この仕事って、押しが強い人の方が向いてるように思われがちですけど、そうでもないんですよ。皆でグイグイ行っても結局意味ないですし、中にはあまり干渉されたくない方もいますからね。うちの会社はグイグイ系ばっかりなので、白井さんみたいな人はかなり重宝されてるんですよ」 いつも飄々(ひょうひょう)としている柴崎さんは、客に説明する時のような真面目な表情でゆっくりと語る。 俺は幼少期から"覇気がない"と大人から言われてきたし、今もそうだと思う。今の仕事に就く前は、派遣でコールセンターの仕事をしていたが、初日に「よろしくお願いします」と挨拶しただけで「やる気あるのか」と叱られたし、電話対応も「事務的過ぎる」と毎回注意されていたくらいだ。 「僕自身、割と押しが強い性格なので、白井さんみたいに他人に干渉し過ぎない人って憧れます」 彼は屈託のない笑顔で俺の方を見る。 「そうですか」 他人に褒められた事がない俺は、当然返事に 困り、結局またドライな反応になってしまった。 夕方頃、客を車に乗せて内見先まで案内する。今回の客は俺と同世代くらいの新婚夫婦だ。明らかに女の方が絵に描いたようなマリッジハイで、結婚式場やドレスの話ばかりしている。狭い社用車の中で大きな声で話されたら、嫌でも会話が耳に入ってくる。 俺は存在感を無にしてひたすら運転する。女は物件に対する拘りが強いようで、俺の説明に対して男の方が「いいですね〜」と言っても、女は「でも〜」とデメリットばかり主張してくる。そして次の物件、また次の物件と内見するが、結局女は納得する事なく「とりあえず検討します」と言うだけだった。 最後の物件が見終わり、辺りは既に暗くなり始めていた。客を乗せてオフィスまで戻る途中、通っていた大学の近くを通る。そこで、信号が赤になった。 楽器を背負った学生集団が談笑しながらぞろぞろと歩いてくるのが見えた。これから軽音楽サークルのイベントだか飲み会なのだろうか。皆髪を染めて各々の個性を出そうと必死なのが伝わってくる。 そんな中、列の1番後ろで誰とも会話をせずのんびり歩いている青年が目に留まった。5月という事もあり、サークルのノリに馴染めずにいるのかもしれない。 その青年は見た目がかなり地味で、派手な集団の中、1人だけ落ち着きの払った雰囲気が出ている。周りの会話に興味を示さず、どこか虚ろな目で景色を眺めながら歩く様子は、何となく"アマヤドリ"の菅原さんと重なる。青年が背負っているのがギターではなくベースだからだろうか。 人間観察をしているうちに、信号が青に変わった。再び車を走らせる。 後ろの席に座る女はさっきから一方的にマリッジハイ特有の話をし続けている。男は聞き上手なのか優しすぎるのか、「うんうん、そうだね」と相槌を打つだけだ。少なくとも、女の方は年齢的に結婚を急いでいたに違いない。 無事、厄介な客と別れてオフィスに戻った時には既に就業時間が過ぎていた。 昼に食べた蒙古タンメンによる口内の痛みが残っていて、尻もかなり痛む。しかし、何故だか嫌ではない。 「白井さん、お疲れ様でした!大変でしたね〜」 柴崎さんは先程の客の厄介さを察していたようだ。 「お疲れ様です…」 本当に疲れた。内見で5件も引きずり回されるのは滅多にない事だ。それで契約が取れれば良いが、今回は取れる気がしない。 結局、今日はいつもより遅い時間に退社した。今日の接客対応は想像以上にストレスフルなものだった。 また煙草を吸いたい衝動に駆られる。せめて副流煙だけでもと思い、自宅の最寄り駅の近くにある純喫茶に立ち寄る。禁煙する前はベランダかこの純喫茶で煙草を吸っていた。 店内は少し薄暗く、テーブル筐体(きょうたい)が置いてあり、席と席の間は観葉植物で区切られている。小豆色のソファに座り、背もたれにもたれると、身体が少し沈む。 壁にはこの近くの渓谷の写真が貼ってあり、この付近が一応観光地だという事を思い知らされる。 ここには基本的に夜しか行かない。昼間に行くといかにも純喫茶巡りが趣味なレトロ好き女子が、仲間を連れてうるさくしているからだ。 この時間は俺のような仕事帰りの1人客がちらほらいる程度で、競馬中継の淡々とした実況だけが聞こえてきて、居心地の良さを感じる。俺はいつものようにナポリタンを注文した。 しばらくすると、金属の皿に盛られたナポリタンが、テーブル筐体の上に運ばれてきた。味噌汁も付いてくるのは有り難い。 タバスコをかけ、太い麺をフォークに絡めて口に運ぶ。ケチャップのシンプルな味付けと、油で炒めた香ばしい香りは、どこか安心する味わいだ。そして、店内をふわふわ浮かぶ副流煙の匂いと、タバスコの辛さが疲れを忘れさせてくれる。 競馬中継の音声を聞きながら、黙々とナポリタンを食べていると、テーブル筐体の上に置いていたスマホが震えた。それと同時に、レースの結果が出たようで、実況の声は少し熱がこもっていた。どうやら、よく分からない変な名前の馬が1着になったらしい。 スマホの画面を見ると、メッセージが届いていた。その送り主は、俺がずっと忘れられずにいた人物、匠海だった。すぐにアプリを起動させ、内容を確認する。 『久しぶり。そっちの家に忘れ物したみたいで、早急に必要だから取りに行きたいんだけど、明日の夕方って家にいる?』 そのメッセージに対し、俺は「久しぶり。いるよ」とだけ返した。匠海が出て行ってから、俺は色んな事を思い、伝えたい事や話したい事はたくさんあった。しかし、俺はいつでも淡白な反応しか出来ずにいた。
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