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祖父の残したカミ
梅雨空の下、祖父の葬儀は静かに行われた。享年八十二歳、脳卒中で亡くなったらしい。
しとしと降る雨は止むことをしないで、なんとも言えない重苦しさを引きづらせている。
そうした空気の中、私は置物のように座っているだけだった。もし何か手伝えと言われれば、置物から人形へと変わる。
父方の祖父とは縁が薄い。
正月もお盆も、行くのは決まって母方の田舎で……遠く離れた父方の実家には、滅多に出向かなかった。
だから祖父と私が会ったのも、物心がついてから数える程度。
何を話したのかすら思い出せない。どんな人柄だったのかも分からない。親戚なのに、会社の同僚よりも他人に近い。
可愛がられた記憶は……あるような、無いような。
そんな訳で葬儀の間、祖母が暮らす家で世話になっているのも、なんだか申し訳なく思ってしまう。両親が居なければ孤立していたに違いない。甥も姪も居ないし。若いのは私だけだ。
せめて天気だけでも晴れていれば良かったのに。週間予報では雨と曇りが並んでいる。
忌引き休暇も残り一日。それまでの辛抱だと腹を括った。
「知佳、おばあちゃんが遺品整理を手伝って欲しいんだと。倉に居るって」
「わかった。すぐ行くね」
私は居間で見ていたテレビを消して、のっそりと腰を浮かせた。
古き良き日本家屋。二階建てで瓦屋根の一軒家に、縦長の倉が一つ。車が六台は止められそうな、がらんと大きな庭。それが祖父母の住まいだ。
都会感覚で言えば、二人で生活するには広すぎると思う。これからは、もっと。
葬儀用の黒い靴を履き、ガラリと戸を開けて倉まで歩く。
白壁に漆塗りの瓦屋根、立派な倉だ。扉は開けたままになっている。
「おばあちゃーん、知佳です」
「知佳ちゃんかい? こっちにおいでぇ」
言われるがまま、私は階段を上がっていった。ギイギイと足元で頼りない音がした。
窓からの明かりしか無いのか、ちょっと薄暗くて怖い。でも一階よりは光が届く。
「……書庫?」
左右の壁一面に本棚。大小様々な書籍が背差しにされている。千――いや、万にも届きそうな数。
一人分しかない通路の奥で、祖母は木製の揺り椅子に座っていた。
「すごいでしょう、これ」
「え、あ、はい。なんというか、圧倒されました」
素直な感想を言った私に、祖母は柔らかく微笑んで、ゆっくりと手招きした。
「葬式やらで、ちゃんと挨拶できなくて、ごめんねぇ知佳ちゃん。まあ本当に大きくなってぇ」
「あはは……今年で二十四ですからね、私。もう子供じゃないですし」
「小ちゃかった頃は『おじいちゃんが遊んでくれない』ってグズいてたの、覚えてる?」
「んー、すみません。もう覚えてないです」
苦笑いを浮かべる。どうしよう、この借りてきた猫みたいな感じ。早く用事を済ませて帰りたい。
「父から、おじいちゃんの遺品整理って聞いたのですけれど」
「ああ、そうだったね」
無理に立ち上がろうとしたのか、前のめりになった祖母を支える。しわだらけの顔で「ありがとう」と綻ぶ祖母。
「知佳ちゃん、本は読む?」
「ええ……まあ、それなりには」
「そう、良かった。ここにある本はね、全部あの人が読んだ物なの。一度読んで、ここに仕舞う。でも、おばあちゃんは読まなくてね。後のこともあるし、焚書にしようかと思って」
「これ、燃やしちゃうんですか?」
端から端まで、ぎっちりと敷き詰められた本の壁。古本とはいえ売ることだって、できると思うけど。
「なんだかね、このまま残しておくと、あの人が現世から離れてくれないみたいで」
「………………」
それだけ思い入れがある場所、ということだろうか。
「じゃあ私は、本を下まで運べばいいんですか?」
祖母は「ううん」と首を振り、「気に入ったのがあったら貰って欲しいの。その方が、あの人も喜ぶと思うから」と言った。運んで燃やすのは業者に頼んでいるらしい。
遺品整理って、そういうことか。
「お願い、できる?」
「……はい。ちょっと見てみますね」
私の二つ返事に祖母はお礼を言って、倉から出ていった。
正直、おじいちゃんと私の趣味が被るとは思えないけれど。明るく振る舞おうとする祖母の手前、断れないし。とりあえず一通り見てから決めよう。
よく私が読むのは、純文学とライトノベルの間――いわゆるキャラクター文芸と呼ばれる類だ。
文庫本のサイズで、お仕事物や軽いミステリー、あやかし物なんかが流行っている。文体もキャッチーで読みやすい物が多い。
「……だよねぇ」
対して、祖父は時代小説やエッセイ、純文学の系統を読んでいたらしい。中には名作と呼ばれる本もあったけれど、ドラマや映画化していたので内容は知っていた。
時間をかけて探せば、ひょっとしたら好みの小説もあるかもしれない。でも私は今日の夕方には帰る予定だ。
声をかけてくれた祖母には悪いけれど、適当に何冊か見繕ってしまおう。
タイトルで惹かれた物を手に取り、パラパラとめくる。まるで本棚のように、みっちりと文字が詰め込まれていた。昔の本って改行が少ないよね。
せっかくだし揺り椅子にでも座って読もうと、視線を持ち上げる。
――そこには、色素の薄い男が立っていた。
「え?」
色を抜いた金髪はボサボサで、うっとうしい。ぼんやりとした二重の目。同い年くらいだろうか。全体的に埃っぽいクリーム色の和服。靴も履かないで素足のままだ。
いやいや、そんな外見のことよりも。
一体いつから、そこに居たの? 出入り口、一箇所しか無かったはずなのに。
遠くの雲でも眺めるように、彼は無言で私のことを見つめていた。
見た目は派手だけど……日本人、だよね。祖父母の知り合いとか。
「えっ、と。あなたは?」
手元で開いていた本を閉じて、頭の整理もつかないまま、私は尋ねていた。
私のことを真似ているのか、彼は首を傾げる。
「お名前は?」
「お、なまえ……名前」
日本語は通じるみたい。目を伏せた彼は何かを考えるようにした。
「……当言、教?」
私に訊かれても。なんとなく偽名っぽいし。
「私は本名を知りたいのですが」
「ああ……うぅ……ち、知佳……?」
「それは私の名前、で」
どうして、私の名前を知ってるの? まだ名乗っても無いのに。
困り果てた彼の顔は、危機感こそ抱かないものの、どこか不気味で。
人形であるかのように――怖い。
「ち、ちょっと、人を呼んできます!」
返事も聞かずに私は階段を駆け下りた。
不審者だ――不審者だ! 初めて見た。こんな昼間に堂々と!
倉から家の玄関まで勢いよく走る。到着するなり、私は大声で叫んだ。
「お父さん! お父さぁん!」
私に代わってテレビを見ていた父は、何事かと顔を出した。私が手っ取り早く事情を話すと、父は半信半疑に表情を曇らせた。
「ほんとか、それ?」
「いいから! 逃げられちゃう!」
「まずは警察に通報をだな」
「そんなことしてたら捕まんないって! 私だって自信無いんだから!」
奇抜な格好に、私の名前を知っていたこと。ただの不審者にしては、やり過ぎな気もしてくる。
それでも怖いことには変わりないし、もう引っ込みもつかなかったので、父に倉まで付いて来てもらった。
「で、その不審者は……どこだ?」
「……い、椅子のところ」
呆れた溜息が零れる。
「誰も居ないんだが」
私は父を盾にするようにして、後ろで小さく首を振った。
驚くべきことに。
父には、彼の姿が見えていなかった。
* * *
「……懐かしいな、ここ」
父は倉の本棚に、そっと指を当てた。祖父同様、父にとっても思い出の場所なんだろうけど、それどころじゃない。
不思議そうに私達を見ている謎の男。彼は、何なんだろう。
どうして父には見えていないのか。
どうして私にだけ見えてしまうのか。
……幽霊よね、やっぱり。
「そういえば、おばあちゃんに遺品整理を頼まれてたんだろ。ここの本でも処分するのか」
「みたい。好きなのがあったら貰って欲しいんだって。おじいちゃんが喜ぶから」
「確かに」父は口の端を吊り上げて「親父の奴、よく人に本を勧めてたな。俺は興味が無かったけど」
「本読まないもんね、お父さんは」
「どうも好きになれなくて、な。親父が本に夢中だったから――かもしれないが」
「普通、これだけ集められないものね」
平静を装いながら父と話す。もし彼が幽霊の類だったら、下手に刺激しちゃダメだって、どこかのテレビ番組で言っていたはず。無視だ、無視しないと。
「ま、お袋が決めたんなら止めはしないさ。勿体ない気はするけどな。じゃ、俺は戻るぞ」
「え、私は?」
「……あのな知佳、お前も二十四なんだから、いい加減にオバケとか言う年齢じゃないだろ。薄暗くて怖いのは分かるけどさ」
怒りで口から火が出そう。
「もういい! あっち行って!」
「はいはい。夕方には帰るからな。それまでに選んでおけよ」
片手を上げて階段を降りていく父。なんて頼りない背中だ。娘の言うことも信じないで小馬鹿にして。
ああもう、バカバカしい。
「……それで、自分の名前くらいは思い出せたの、あなた」
私は作務衣を着た彼を睨んだ。不審者も幽霊も初めてだ。けれど彼は無害そうだし、このまま放っておく訳にもいかない。
私しか見れないなら、私が何とかしないと。
口調を強めた私の問いに、彼は静かに頷いた。
「レイカ」
「レイカ? 女の子っぽいのね……昔の人なら、そういうものかしら」
ふぅ、と息を吐く。一応、逃げれるように身構えて。
「あなた、どうして私にしか見えないの? 私の名前も知ってたし。成仏? とか、するんでしょうね」
「わからない。気付いたら、ここに居た」
「他に覚えてることは?」
彼は整った二重を閉じて「同じ人が、何度も手を取った。段々と髪が白くなって、抜け落ちても。繰り返し、手に取ってくれた」と言った。
言葉そのものは単純で、どこか拙さもあるけれど、そこに何故か重みを感じた。
「レイカにとって、大切な人? 親とか」
「うん、そうかも」
屈託なく笑うレイカに、いつの間にか私の恐怖心は消えていた。この幽霊は、どうしたらいいのか分からなくて、困っているだけ。
残す手掛かりといえば、彼の服装くらいだ。
埃っぽいクリーム色の作務衣。上下の衣類とも、くっきりとした折り目や茶色いシミなんかが目立つ。あのシミは、何かを零した跡だろうか。
っ、もしかしたら――
「ねぇレイカ。あなた、人間じゃないわよね。ずっと幽霊かと思ってたけど、そうじゃない」
「……ゆうれい?」
髪の色も、服の色も、昔の人だとは考え難い。
あまり記憶が無いのは、物として扱われていたからで。
「多分、そこから動けないんだよね」
「そうだよ」
揺り椅子の近く。長い間、何度も手に取ったくれた、大切な思い出。
祖父の、お気に入り。オバケはオバケでも、物に宿る付喪神。
私はレイカに向かって歩き出した。真正面まで行って、そばの本棚を目にする。
その背表紙は、レイカの髪色と同じだった。
「あ……」
持ち上げた視線の先には、誰も居ない。ただ人知れず、風が吹いたように揺り椅子が動いていた。
「冷夏、ね」
思わず笑ってしまう。確かに名前で間違いない。
私は一冊の本を大事に抱えて、倉を後にした。
膨大な本の壁に囲まれても……きっと私が読みたいのは、この一冊だけだ。
そして夕方。
エンジンをかけた車の前で、私は祖母に会釈した。
「色々と、お世話になりました。また来ますね、おばあちゃん」
「遠いで、ひょいひょい来られるもんでないよ」
「……そうだ知佳、こっちを引き払ったら、お袋もウチに住むことにしたからな」
「え!?」
「わたしゃ施設に行くって言ったのにねぇ」
「冗談じゃないっての。そっちの方が金かかるし。流石に一人にはさせれないよ。ちゃんと話し合って決めただろ、お袋」
「まったく、あの人譲りで強情なんだから」
「という訳で、おばあちゃんに会いたかったらウチに来いよ」
「そうする」
なんだか葬儀の後なのに、妙に晴れやかな気分で……それは雲間から青空が覗いていた所為かもしれない。
私は後部座席に乗り込んで、祖母が見えなくなるまで手を振った。
高速に入ったところで、父に祖父が愛読していた本を貰ったと告げた。
「冷夏って、お前……そりゃ、愛読してたんじゃなくて、書いた本人だぞ」
「はぁ!?」
「知佳が小さかった頃な。当言教ってペンネームで、一冊だけ。趣味が功を奏してってヤツだ」
「う、嘘でしょ……」
亡くなった祖父を知る機会として、これ以上は無い。
祖父の描く彼が、一体どんな物語を紡ぐのか。それに私の名前が、どんな風に使われていたのか……車の中で、楽しみが膨らんでいった。
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